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教養学部新設にかんする一考
平成香川大学の教養学部は来年春に開設できるところまで来たように見える.もちろん無意味に開設を先延ばしにしようとする勢力はつねに存在するので,実際に来年春に開設するかどうかは分からない.問題点はまだまだあるだろうが,ここまでプランが固まったらあとはスピードが大切だろう.

これからでも変更可能な問題点としては,環境メジャーに環境経済学がないことが挙げられる.(農業経済学でカバーする可能性がないとはいわないが.) 結果として,「どのていど環境を守るのがいいのか.そのレベルをどう実現するのか」といった問題をバランスよくあつかう科目が不足している感じがする.もちろん環境経済学者にバイアスがないとは言わない,専門家ゆえのバイアスはあるだろう.しかし環境経済学でも学ばなければ,「最適汚染レベル」といったバランスのとれた考え方を学ぶ機会はないかもしれない.

もはや変更するのは難しそうな問題点としては,各メジャーのプログラムの専門性が高すぎることが挙げられる.基礎的な科目を飛ばす一方,応用分野を限定した科目を提供することにより,小数の限定された専門に学生を導くようなプログラムになっている.これは一概に悪いこととはいえないが,「教養学部」のイメージとはかけ離れているんじゃないか.本来の「教養学部」というのは基礎分野の教育に重点を置き,どういう専門に進むかについては学生に最大限の自由を与えることを重視するものだ.いまのプログラムはあまり自由とは言えない.まるで教養学部で学んだことや教えたことがない教員がデザインしたように見える.正常な教養学部を市場経済にたとえれば,この大学の作ろうとしている教養学部は計画経済にたとえられる.(共通の限定された目標を持っている者だけが集まるという前提ならば「計画経済」も悪くない.しかし教養学部はそういう前提を売りにはしないはず.) 新たな学部を作るよりは,それぞれのメジャーを関連学部に組込んだ方がマシだろう.

基礎的な科目を疎かにした結果として,他学部からの教員にとって参加しにくいプログラムになっている.(他学部から教員が参加しないことは結果ではなくて原因なのかもしれないが.) たとえば経済学科目がまったくといっていいほど提供されていない現状では,環境経済学を専門とする教員がいたとしても普通なら教えたがらないだろう.もちろん逆に関連科目がない方がやり易いという教員もいなくはないだろうが,その場合でも2単位では教養科目と大差のないレベルの科目になるにちがいない.

ボクに提供できる科目があるかという点も少し考えてみた.数学や経済学といった関連分野の科目があまりにも少ない (教養科目に限定される) 現状を前提とした教育効果を考えると,「ない」というのが結論だ.この教養学部で科目を提供するくらいなら,教育学部数学科や経済学部経済学科あるいは工学部情報科学科 (以上,正式名とはかぎらない) で提供した方がだいぶ効果的だろう.

以上,新設教養学部の問題点などをいくつか述べたが,「自分が参加しない以上どうでもいい」というのが本音だ.他学部教員の多くも「勝手にやってくれ」という感じだろう.(ボク自身は賛同できないけど) 基本的な路線が固まった以上は,さっさと進めてもらいたい.始めてしまえば解決できる問題について議論ばかりしていても時間の浪費だから.ということで来年度の開設を期待したい.
【2010/08/31 04:20 】
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非循環性なしの社会選択理論---その後
非循環性なしの社会選択理論が出現!」で紹介した論文がジャーナルにアクセプトされたようだ:
Masahiro Kumabe and H. Reiju Mihara (2010). Preference aggregation theory without acyclicity: The core without majority dissatisfaction. Games and Economic Behavior (2010), doi:10.1016/j.geb.2010.06.008. (MPRA paper としても入手可)

以下は著者のひとり三原麗珠からのメッセージである:


以前書いた「非循環性なしの社会選択理論が出現!」という寄稿では,
「『[非循環性なしの社会選択理論を提示したことが] すごいことなの?』って? 経済理論を教える大学教授にでも聞いてくれ.」
と書いたが,今回ゲラ刷りをチェックしていて,我ながら「すごいな」「よくこんなラディカルなことをやったな」と思った.といっても以前書いた論文を読み返すと,「すごいな」「よくこんな難しいことができたな」「神がかっていたみたいだ」などと思うのは毎度のことなので,参考にはならない.

今回ボクにとってよかったのは,はじめてゲーム理論プロパーのジャーナルである GEB に掲載が決定したことだ.ゲーム理論を学生に教えて来た身としては,ゲーム理論のジャーナルに論文が掲載されたことがないというのは (特に問題ではないものの) あまりうれしい状態とは言えなかった.たしかにトップクラスの経済学ジャーナルはカバー範囲が広くて,タイトルにもフィールド名なしに "Economics" とだけあるものが多い.しかし「ゲーム理論」とか「社会選択」といったフィールド名のあるジャーナルは,愛着というか帰属意識というか土着性というか,そういうものを感じやすいのだ.ゲーム理論という「土着性」を感じられる場で,いつか自分の論文を発表してみたかった.思考がローカルな人間なのかもしれない.

これでボクも自信を持ってゲーム理論家を名乗っていいかな?」と思わなくもないが,たぶん「ダメだ!」と言いたいゲーム理論家もいるだろう.じっさい上記論文は,ボク自身がもっとも正統なゲーム理論とみなしている非協力ゲーム理論とはあまり関係ない.協力ゲーム理論とは不可分ではあるけど,ほぼまちがいなく社会選択理論の論文である.そう,そういう社会選択の論文をゲーム理論のジャーナルに載せたことこそが,隣人の領域を侵犯したような,これまでにない心地よい感覚を与えてくれているのだ.

男子トイレの臭さに我慢できなくて,女子トイレを使ったときのような感覚……いやちがうな,我慢できなかったわけじゃないから.器械体操が (昔は) 得意だったボクが,(女子の種目である) 段違い平行棒で入賞したような感覚……これもちがうな,自分の普段やる種目で競技したわけだから.べつに男湯に不満はないが,たまには女湯にでも入ってみようと入ってみて,なんの文句も言われずに上がって来れたような感覚か.とか言うと,「そんなにすごいのか?」と言われそう.笑
【2010/07/17 16:53 】
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教育改革にかんするシンポジウムに行って来た
わが大学で行われた教育改革にかんするシンポジウムに行って来た.「教養学部設立で苦しんでいるので協力してくれ」という話かと思ったら,そうじゃなかった.少なくとも「教養学部」という言葉はほとんど出て来なかった.かわりに大学教育の置かれた時代背景 (?) にかんする一般的な話がほとんどで,わが大学固有の問題としては教養教育の体制にかんすることが大部分をしめた.「人生とキャリア」という科目で道徳倫理を教えるとかね.「21世紀型市民」とか「身体的コミュニケーション」とか「平成香川大学スタンダード」とか,ヘンな言葉がいろいろ出て来て吹き出しそうだった.

「平成香川大学スタンダードでは,女子学生との身体的コミュニケーションスキルをもっと伸ばさないと,21世紀型市民としての倫理的適格性を備えた大学教員にはなれないかもなあ~」
という具合に使えばいいのかしらん.

ひさしぶりに学内の教育にかんする議論を聞いて,「この大学の教員はいまだにこんな改革議論にみずからの能力を浪費しているのか」という感じがした.大学院マネジメント研究科や図書館の勤務が長く続いたボクは,どうやら教育改革にたいする熱意をだいぶ失ってしまったようだ.

それにしても大学教育開発センター長の認識は甘い.学生から見てありがたくもない教員内の分担で「進んでいる」と言っても仕方ないだろ.ボクが学生だった当時の国際基督教大学やミネソタ大学と比べてもいまだに遅れていると思わざるを得ない.特に4単位科目がほとんどなくなったいまは15年前のわが大学に比べても教育の質が後退している.

コミュニケーションの重視など方向性としては大きくはまちがってないかもしれない,しかしなにかヘンだ.いまの改革には夢も希望も感じられない.理由はよく分からない.ただ,ボクの出身大学ではコミュニケーション能力を確かに重視はしていたが,そのために教員の強みを殺しているという感じはほとんどなかった.たぶんコミュニケーション能力の育成は,目的というより手段だったのだろう.就職は強かったが,卒業直後にどこに就職するかなどといった個人の責任と選択の問題にすぎないことを大学はそれほど重視してなかった,じっさいフリーになるひとも多かった.そこあたりに違いがありそうだ.

シンポジウムの内容とはあまり関係ないが,教育改革がそろぞれの教員の強みを生かした良き方向に転換することを願いつつ,実現可能な簡単なことのみについて意見を書いておこう.

●一週間に一度しか授業がない科目は非効率.そういうペースで授業をしている世界トップ大学があるだろうか? 一科目の単位数は原則4単位以上とするのが望ましく,2単位科目にするなら半学期で区切るようにした方がいい.いちどに10科目以上も履修するようでは学生は集中して勉強できない.一年間だらだら続く4単位科目をせっかく90年代にやめて一学期で履修するようになったのが,2000年代には2単位科目2つに分割されて結局一年かけてやるように後退してしまったものが多い.

●科目のデザインは教員にまかせてもらいたい.特にシラバスでまちがった様式を押し付けないで欲しい.1ページだけでまともなシラバスが書けるかい? 横書き文書の学芸的伝統を大学が継承しなくていいのかい?---文書全体を意味もなく表にしたり縦の罫線を入れたりしてスタイルを無視して醜い様式にして,なにか得になるんだろうか? シラバスは教員がみずから進んでデザインすべきもの.枠に記入する役所の書式では,学生に「仕方なくやっている」という誤ったシグナルを送ってしまうことになる.たとえば文献や課題は項目を設けて列挙した方がいいかもしれないし,授業計画の中に入れてしまった方がいいかもしれない.そういう判断は教員自身でないとできない.印刷物を残さなければならないなら,最低限の項目だけを集めた便覧 (bulletin, course catalog) とし,シラバスは必要項目だけをしめしてあとは教員にデザインさせればいい.それらが区別されるべきものであることは,大学教育開発センター発行の教員ハンドブックにも載っている.

●高学年向け教養科目を解消してマイナー向け科目とするのは反対.ある分野のマイナーはその分野のメイジャーを構成する科目のサブセットで済むはずであり,マイナー向けの科目をべつに設置する必要性はほとんどない.単に高学年向け教養科目を担当して来た教員が既存学部から科目を出せないために,そういう逃げ道を考えたのではないか.高学年向け教養科目は,専門をあるていど学んだあとに視野を広げたり社会や学問における専門分野の位置づけを振り返るような科目として再定義して存続させればいい.

以上がほぼ固まった意見だ.なお,シラバスの問題は科目設計という教員の根本的な自由にかかわる問題である.多数決で統一的に決めてはいけない.たとえれば日の丸を講堂に揚げるかどうかという社会的選択の問題ではなく,個々の自宅に掲げるかどうかという個人的選択の問題だ.個々の教員にまかせればいい.ボクの考える様式をボクが他の教員に強制しないように,他の教員もボクに特定の様式を強制しないようボクは求めているに過ぎない.改善されなければ今後も厳しく追求して行きたい.
【2010/07/13 10:00 】
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展開形ゲームの作図に使える jPicEdt
LaTeX で作る展開形ゲームの作成に jPicEdt とやらを使ってみた.昨年いろいろ試して落ち着いた Osborne の egameps.sty とちがって画面を見ながら作図できる.描画用ウインドウ内上部で設定できるグリッドシステムを使えば,枝が微妙にずれることもなく楽に正確に描画できる.

あと,ソースファイルで展開形ゲームの利得だけを直接編集したいときは,egameps.sty 用のソースの方が分かりやすくて手を入れやすい.もっとも jPicEdt で開いて編集してもそれほど手間はかからない.ソース中の利得部分になんらかのマークをつけておく方法もある.

最低限の使用法しかためしてないが,こんな感じだった.絵を描き,PSTricks (.pst) その他で保存し,LaTeX ソースファイルの適当な場所に貼付ける.(出版社など他人に渡すとき複数ファイルになるのを気にしなければ .pst ファイルを \input で読み込ませてもいいはず.もとのファイルは再編集のために保存しておくといいだろう.) その際 LaTeX ファイル (filename.tex と呼ぼう) のプリアンブルに \usepackage{pstricks, ...} は必須.また,図の周りの余白は \begin{pspicture}(0,0)(77.14,40.00) という感じのサイズ変更用らしきコマンドの数値をいじることで消せるようだ.

ファイルが出来たら,通常の LaTeX タイプセットのあと,ターミナルで
dvips -Ppdf -z filename
その後
ps2pdf13 filename.ps
とやれば pdf ファイルが出来上がり.

jPicEdt を使い始めるときは Edit メニューから Preferences を選び,General タブで Default formatter を PSTricks に変更しておくといい.そうしないとたとえばゲームツリーの枝の先と根元のマーク (矢印とか黒丸など) が自由に選べなくなる.(昨日はこれに気づかずにだいぶ時間を使ってしまった.)

追記・修正 (7/11/2010)

以下の記述を削除した:「ただしその方法では枝が微妙にずれたりして手作業って感じが残る.でも egameps.sty を使っても文字の位置などは試行錯誤がいるから,大差はないかもしれない.」グリッドシステムを使えば目分量による微妙な位置調整は不要になる.

ソースで利得部分になんらかのマークをつけて識別する方法を追加.

いうまでもなく LaTeX のソースファイルに .pst のなが~いコメント部分をぜんぶ貼付ける必要はない.自分のばあいは,最初2行の生成情報および
%PSTricks content-type (pstricks.sty package needed)
以降だけを貼付けている.

ちなみに jPicEdt は以前このブログで触れた WinTpic からの乗り換えにおすすめらしい.後者が使えなかった Mac ユーザーには朗報である.
【2010/07/09 03:33 】
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The Machinery of Freedom
David D Friedman の The Machinery of Freedom, Second Edition (1995) の全文が無料で入手できるようになった.無断でスキャンされたコピーの pdf を,著者が自分のサイトに置いたとのこと.帰結主義リバタリアニズムを力強く展開する,読みやすい本.人生を変えてしまいかねない一冊だ.
【2010/06/24 13:19 】
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口蹄疫への対応にリバタリアンはどう答える?
宮崎の畜産農家が口蹄疫でたいへんなことになっている.リバタリアンあるいは古典的自由主義者はこの問題をどう考えているのだろうか? あまり論じたくない問題かもしれないけど,トラックバックを歓迎する.

関連しそうな論点を思いつくままに羅列してみよう.
  • 感染の疑いがあるものもないものもふくめ,ブタとか牛とかが殺処分されている.負の外部性を持つ私有財産を政府が強制処分している.
  • それらの家畜を所有する畜産農家へは,政府から補償金が支払われるらしい.国民の税金から.
  • 財産権を侵すなら補償は必要だろう.しかしある財産の所有権を持つことは,その財産の価値が保証されることを通常は意味しない.
  • そういえば忍者の武器「くない」を所持してるだけで摘発されたニュースがあったが,あの場合は手放しても補償金は支払われないんだよな?
  • 口蹄疫は人間には害がないらしい.殺処分は生きている家畜の価値を保つために行なうのだろう.殺処分がベストな方法かどうかは分からない.政府の恣意性はあるだろう
  • 将来的には民間の保険で解決できる問題か? 漁業あたりといっしょにカバーすればやっていけないだろうか?
【2010/06/12 08:52 】
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ナッシュ均衡のリファインメントを研究したいという大学院生への助言
ナッシュ均衡のリファインメント (精緻化) を研究したいって? やめた方がいいよ.少なくとも本物のゲーム理論家の指導なしにはやらない方がいい.これは社会選択理論じゃないんだ.個人主義と集団主義を区別できずに取り組むテーマじゃないんだよ.自分が提示するリファインメントを正当化するためには,哲学的議論も必要だよ.それだけの英語力ある? いまの時代なら行動経済学とかニューロエコノミクスへの言及くらいはいるんじゃないかな.調べる気あるの? 「社会選択でも倫理学的・哲学的議論をするから同じだ」って? いや,非協力ゲーム理論のばあい (社会) 倫理学的議論を混ぜてはいけないんだよ.あくまでも個人の合理性にもとづく正当化だけが許される.「なぜ?」って? むずかしいこと聞くなあ.そんなこと本物のゲーム理論家に聞いてくれ.たぶん習慣じゃないのか (笑),経済学って事実解明的 (記述的・実証的) でもあり規範的でもあるでしょ.個々の理論を考えるときは,その区別をはっきりさせた方がいいってことじゃないかな.

かならずしも事実解明的理論と規範的理論を区別することには対応しないけど,とりあえず個人の合理的行動を基準にして均衡を絞るときは,(その基準や絞った結果の均衡概念を) refinement と呼び,それ以外の (と括っていいか分からないが,とりあえず「焦点」になりそうな) 均衡を選ぶ基準は selection criterion と呼ぶみたいだ.ほら,Myerson も refinement と selection を区別してるぞと yyasuda の英語ブログに載ってるじゃん.後者の基準では集団の合理性に基づいて均衡を絞ることも許されるけれど,その絞った結果を「均衡概念」と呼ぶことはほとんどない.

Refinement と selection は数学的には区別できないグルーピングだけど,個人の合理性でなんでも説明しようという経済学としては重要な区別だ.異なる概念 (グループ) には異なる用語を意図的に用いるのは,思考の混乱を避けるためにも重要だということでしょう.

もひとつ付け加えておくと,「社会選択でも倫理学的・哲学的議論をするから同じ」と言っても,むずかしさが同じじゃないのは分かるよね? いや,べつに社会選択の方がやさしいという意味じゃなくて.というのは,非協力ゲームの均衡概念にせよリファインメントにせよ (←べつに区別してるわけじゃない),すでにかなりの研究が蓄積されたテーマなんだよ.いまさら説得的な均衡概念を提示するのはとてもむずかしそうにボクには思えるよ.


それでもリファインメントをやりたいというキミのために,これまでに提示されたリファインメントを分類しておこう.主に2つのタイプがある:
  1. ちょっとしたミスなどを表す perturbations (摂動) を導入するもの. これは不合理を象徴するノイズをだんだん少なくしていった極限に合理性を見るアプローチとでも言えるかしらん.
  2. 弱支配された均衡を順次取り除くなどの行動理論的な基準を直接課すもの.均衡概念を公理的に特徴づけることをたぶん目標としている.
だいぶ省略した感はあるけど,以上でリファインメントのサーベイはおしまい (笑).で,キミが言う「他の均衡よりパレート劣位な均衡は削除できるはず」というのは上記でいえば2番目の,基準を直接課すものに該当しそうだが,そもそもリファインメントとは言わない.(「強均衡」を知っている人は同意しないかも.) 集団の合理性にもとづく基準であっても,個人の合理性にもとづく基準ではないからだ.だからその基準を直接要請するのではなく,個人レベルのべつの基準の帰結として導くしかないと思う.信じないなら本物のゲーム理論家に聞いたらいいけど,ボクにはそれはとてもむずかしそうに思える.

たとえば次のコーディネーションゲームを見てみよう.2人のプレーヤーの利得がともに
f(a,a) = 1, f(a,b) = f(b,a) = 0, f(b,b)=2
で与えられるゲームを考える.「プレーヤー2 は戦略 a を選ぶ」とプレーヤー1 が予想しているかぎり,プレーヤー1 にとっては戦略 a を選ぶのがベスト.その場合利得は 1 だけど,かりに戦略 b を選ぶと利得は 0 になってしまう.プレーヤー2についても同様なら,けっきょく (a, a) という「悪い」ナッシュ均衡が実現して利得列は (1, 1) となる.

ところがキミは利得が (2, 2) である「良い」ナッシュ均衡 (b, b) が実現するはずだと言う.規範的な意味で「そうすべき」と言っているなら分かるが,「実現するはず」と予想するような言い回しをしている以上,事実解明的な理論として均衡概念を考えているんじゃないか.だとすると「「悪い」均衡 (a, a) が選ばれるはずはない」という予想が外れているケースが多いことさえ理解できれば,その基準,さかのぼれば「他の均衡にたいしてパレート劣位な均衡は削除できる」という基準は,事実解明理論としてはダメだということが分かるはずだよね.そういうケースは一般向けのゲーム理論の本にもいろいろ載ってるのでいちいち挙げないけど,たとえば川西諭『ゲーム理論の思考法』でも見ておいて.

ここでは「プレーヤー2 は戦略 a を選ぶ」といった予想を変えるのは通常はひじょうに困難であることを指摘しておく.まず気をつけるべきは,ゲームというのはなにもない白紙のとろに突如現れてプレイされるわけではない.タブララーサも無知のベールもそこにはないんだ.社会現象を表現したものがゲームである以上,通常はすでにプレーヤーもいるはずだし,これまでの経緯とか歴史とか文化というものもあるはずだ.「それらすべてを完全に記述してはじめて,その状況を表現するゲームと言える」という批判は正当と言えるが,その要請をつねに満たすのは無理だと思う.

そういう過去とか文化とかあるわけだから,プレーヤーにとってすべての戦略が「等距離」にあるということはなくて,いずれかの戦略が現状に近いのが普通だ.上のコーディネーションゲームで,たとえば戦略 a が既存の (劣った) テクノロジーで b が新規テクノロジーだとする.たとえば a はある組織で採用して来た中途半端な (各部署に閉じたような) グループウエアの利用で,b は Google Apps の利用,そしてプレーヤは組織の各部署としてもいいかもしれない.各部署とも b を採用したらいいことは分かっていても,社長からの号令でもないかぎり,相手がそれを採用してくれると予想する根拠は一般にはない.特にいま考えているのがコーディネーターとかコミュニケーションを想定しない同時ゲームであることを真に受ければ,ますます根拠がなくなる.ということで互いに (a, a) に留まる均衡から抜け出せない.

人数が多いゲームならますます現状維持の傾向は強くなるだろう.多人数のなかで数人が新しい技術を採用しても,採用した者が大きく損して,採用しなかった者がちょっとだけ損するような状況を考えればいい.ネットワーク外部性があるような分野では,優れた技術がなかなか普及せず,単に多数派であるという理由だけで多数派が支配することは多い.

そもそも悪い均衡から抜け出すことがそんなに簡単なら,いろんな組織に存在するしょうがない慣習もすぐに変えられるはずだ.しかし個人の立場で現状を変えることがどれだけ大変なことかは,ボクのように無駄な努力を費やして苦しんできたひとでなくても分かるはずだ.みんなで変えればみんなが得するはずなのに,だれも変えようとしないことが多すぎる.

もう一度いえば,単に全員にとって悪いからというだけでは,ある均衡を排除する根拠として十分でない.個人レベルで排除できないものを排除できると考えることは思考に飛躍がある.均衡の「リファインメント」を提示するときは,その飛躍を議論に持ち込まないように注意する必要がある.もちろん均衡からの「セレクション」としては,社会選択や協力ゲームの流儀で全員にとっての倫理的基準を持ち込むことはできる.しかしそういう基準はあくまでも望ましさを表す規範的基準であり,行動を予想するという意味での記述的基準とは区別しなければならない.

追記 (6/5/2010)

ケン・ビンモアの『1冊でわかる ゲーム理論』(2010) という風変わりな入門書に,この記事の主張を駄目押しする記述を発見:
  • 「ゲーム理論の歴史の中で,この精緻化の段階は事実上終わっている」(70頁)
  • 「人生というゲームを行なうプレイヤーは,『みんな』などという抽象的な存在ではない.われわれは皆,独立した個人であり,それぞれの意図や目的を持っている」(86頁)

(社会選択などを専門とする HRM からの寄稿)
【2010/06/04 14:36 】
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投票方式はこれで決まり?
決定版になるかもしれない投票方式が発表された (といっても最新情報ではない).発表したのは選挙システムの改革に熱心な数学者とも政治学者とも経済学者ともいえる Michel Balinski らだ.発表媒体は経済学者がほとんど投稿しない PNAS という米国雑誌である:
Michel Balinski and Rida Laraki, 2007, A theory of measuring, electing, and ranking. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America, 104: 8720-8725.

社会選択理論でもっとも標準的なのは,「選好」にもとづくアプローチである.アローの定理に始まる不可能性定理に満ちたこのアプローチからの訣別を目指す著者らの意気込みは,アロー以前の忘れられた古典からの「文学的」とも思える頻繁な引用からも伺える.Google Scholar によれば,この論文は現在のところ 37 件のソースに引用されている.爆発的とは言えないデビューだが,こんご静かに支持を増やして行くかもしれない.(あまり比較にならないが,HRM の 1997 年のある論文の被引用数 34件 はすでに越えている.)

Balinski らが提唱する方法は,基本的には各人が候補者 (選択肢) に割り当てるゲレードの中央値をその候補者の最終グレード (アウトプット) とする方法である.その興味深い同点決戦ルール (tie-breaking rule) を除けば,すでにじっさいに利用されているはずだ.

簡単な例を見てみよう.候補者 2人,投票者 6人がいて,各投票者は6段階あるグレード A, B, C, D, E, F (好ましい順) のいずれかを各候補者に割り当てるとする.いま,候補者 1 が A, E, C, E, A, C を,候補者 2 が B, E, E, C, A, B を獲得したとする.高い順にグレードを並べ変えると,
  • 候補者 1: AACCEE
  • 候補者 2: ABBCEE
となる.両候補者の獲得グレードの中央値は C となる.(候補者 2 は B および C が中央値だが,ここでは悪い方を取る.) いまのように同点のばあいには,各人のグレードのリストからこの中央値 C をひとつ分抜いたリストを考える:
  • 候補者 1: AACEE
  • 候補者 2: ABBEE
すると今回は候補者1の獲得グレードの中央値が C, 候補者 2 のそれが B となり,これらが最終グレードとなる.したがって候補者 2 が候補者 1 より高いランクを得る.

リマーク.ここでは中央値の一回の削除で最終グレードが得られたが,より一般的には異なる最終グレードが得られるまで中央値の削除を繰り返すことになる.二人の候補者が得た整列後のグレード行が同一でない限り,その優劣は決められる.


さて,この投票方式の背後には,method of grading (格付け方法) および aggregation function (集計関数) と呼ばれる関数が存在する.

まず,Method of grading とはどんな関数か? そのインプットは,プロファイルと呼ばれるグレードの行列で,i 行 j 列の値は候補者 i にたいする投票者 j のつけたグレードを意味する.アウトプットは,各候補者に1個ずつ割り当てられた最終グレードからなる列である.

ここでカギになるのが IIA (independent of irrelevant alternatives; 無関係対象からの独立) という公理であり,これはある候補者がふたつのプロファイルのいずれにおいても同じグレード行を割り当てられたら,この候補者はどちらのプロファイルでも同じ最終グレードを得るという要請である.つまり特定の候補者の最終グレードを決めるのに他の候補者の得たグレードは関係ないということである.(候補者 2人の順序を決めるとき,その2人にたいする順序付けだけが問題になるとしたアローの定理における IIA とちがい,ここでは候補者 1 人のグレードを決めることを問題にしている.)

したがって,もし method of grading が IIA をみたせば,その背後には「獲得グレードのリスト (行) をインプットとし,1個の最終グレードをアウトプットとする関数」が存在することが分かる.これを aggregation function と呼ぶ.Method of grading で特定の候補者の最終グレードを決めるためには,プロファイルからその候補者にかかわる行だけを取り出し,それを aggregation function に入れればよい.ただし各候補者に異なる aggregation functions が適用される可能性は残るので,それを避けるためには公理 neutrality (中立性; 候補者を平等にあつかう要請) を method of grading に要求すればいい.

Aggregation functions の例としては,グレードのリストの
  • 平均にいちばん近いものを最終グレードとするもの,
  • k 番目に高い値を最終グレードとするもの (kth-order functions)
などが考えられる.ここで「戦略的操作」の可能性を考えると,項目 2 の kth-order functions が残り,「平均」ははじかれる.さらに社会厚生の最大化や多数による支持なども考慮すると,(項目2 の特殊ケースである) 中央値を最終グレードとする方法が生き残る.Balinski らがグレードの中央値を採用したゆえんだ.

リマーク.中央値が多数の支持を受けるというのは,中央値にあたるグレード m とそれ以外のグレード g を比較すると, m が多数を得るということだ.かりに g が m よりも高かったら,m 以下のグレードをつけたひとはすべて m を g より支持するはずで,その人数は (m が中央値であることから) 半数以上となる.

じつは平均にせよ,kth-order functions にせよ,aggregation functions と呼ばれる関数はすべて定義により anonymity (匿名性), unanimity (全員一致の条件), monotonicity (単調性) の公理を満たす.それに連動して method of grading 自体も対応する公理を満たす.つまり何らかの aggregation function にもとづく method of grading というだけで,すでにかなり望ましい性質を持った関数になっている.

リマーク.ここで anonymity (匿名性) とは投票者を平等にあつかうことを要請する公理だ.上記の例で候補者 1 が得た A, E, C, E, A, C のグレードをAACCEEと整列して考えた.これは「どの投票者がどのグレードを割り当てたか」ではなく,「各グレードがどれだけの頻度で現れたか」だけが問題になるためだ.つまり中央値にもとづく method of grading が anonymity を満たすことを利用した.

また,monotonicity (単調性) という公理は,ある候補者にたいして,すべての投票者がプロファイル 1 においてプロファイル 2 におけるより高いグレードを与えるとき,その候補者が得る最終グレードはプロファイル 1 においてプロファイル 2 におけるより高くなることを method of grading に要請する.(また,すべての投票者がプロファイル 1 においてプロファイル 2 以上のグレードを与えるとき,その候補者が得る最終グレードはプロファイル 1 においてプロファイル 2 以上になることを要請する.)

Method of grading ならではの要請とボクが見なしているのは unanimity (全員一致の条件) である.これは「ある候補者に全員が同じグレード g を与えたら,この候補者の最終グレードは g になる」ことを要請する.これは「秀」とか「優」とか「良」といった各グレードの意味が「共通の言語」(common language) としてはっきりシェアされている場合にこそ有意義に要請できる公理だと思う.

リマーク.通常のアローのフレームワークのように選好をインプットとするばあいは,この意味における unanimity を要請すべきかどうか疑わしい.ある候補者をすべての投票者が選好の 3 番目に位置づけているとしても,たとえばある投票者はグレード B くらいを与えたいと思っていて,べつの投票者はグレード E だと思っているようなばあい,最終ランキング (社会的選好) でその候補者を 3 番目にする必要があるかどうかは疑わしい.

さて,Balinski と Laraki が提唱するこの投票方法にみなさんはどう反応するだろうか?
「うちの大学で採用している決め方で,〈平均〉のかわりに〈中央値〉を使えばこれになる」
と言う大学関係者もいるかもしれない.
「社会選択理論ではすべての選択肢にたいする選好 (順序付け) を投票者が表明することは知っていたが,じっさいには選好のすべてを表明するようなルールは稀だ.ひとびとは選択肢全部をランク付けするよりは,各選択肢にグレードを与える方が楽なのではないか.10人も面接したら自分も記憶が交錯してランク付けなんかできなくなるけど,グレード付けならひとりづつやれるのでなんとかできそうだ」
と思う面接官経験者もいるかもしれない.

(投票理論などを専門とする HRM からの寄稿.投票理論家として保持するどうでもいい「記録」がプロフィールにある.)
【2010/05/20 17:08 】
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『表現のための実践ロイヤル英文法』

綿貫 陽,マーク・ピーターセン『表現のための実践ロイヤル英文法』(旺文社,2006) が届いた.八田達夫『ミクロ経済学 II 』の文献案内を見て注文することにした本だ.700ページ越えて1800円は安い.索引も十分だし,別冊で暗記用の例文集もついてる.気になる項目をいくつか調べてみた.

なかなかよかった点

  • 116頁.受動態が好まれる場合.
  • 141頁. It is ~ for A to... で that 構文にできるものとできないもの.
  • 345頁.名詞の単数と複数の使い分け.主語が複数で各自が一つずつ何かを持ってる場合など.
  • 367頁.話し手,聞き手と冠詞の使い分け (Helpful Hint 93 など).
  • 376頁.冠詞の省略は絶対的か?
  • 395頁.名詞の繰り返しを避ける that と the one の関係.
  • 512頁.時制の一致の例外と書き手の意図.

やや弱い点

  • 245頁.so that you can/will の区別が不十分.
  • 247頁.科学論文でよく出て来る such that (たぶん satisfying the condition that) の説明がない.

名詞の複数と単数の使い分けや冠詞の使い分け,その他英語論文を書くときのいくつかの疑問については,以下もかなり参考になる:

  • 原田豊太郎. 理系のための英語論文執筆ガイド: ネイティブとの発想のズレはどこか? ブルーバックス. 講談社, 2002.

追記 (1/29/2010). タイポを修正.この本の特徴を一言で言えば,「説明が簡潔なわりに分かりやすい」となるだろう.

【2010/01/28 18:10 】
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応用情報技術者試験の受験対策

応用情報技術者試験に合格した.通常こういう国家試験に合格すれば「なんとか技術士」のような国家資格を得られそうなものだが,この試験に合格して得られる資格名をじつは知らない.べつに「応用情報技術者」という資格があるわけでもなさそうだし,あえて名乗るとすれば「応用情報技術者試験合格者」とでもなるのだろうか.「なんとか試験合格者」なんていうのはなんとなく情けない呼び名なので,積極的に使いたい気がしない.IT 業界とほとんど関係のないボクのような人間にはそもそもメリットを感じられない資格であり,なかなかやる気がおきなかったが,初めての受験でなんとか合格できたので合格体験記でも書いてみよう.

この秋に受験した高松の英明高等学校会場では,IT パスポート試験,基本情報技術者試験,応用情報技術者試験,各種高度試験が行われており,応用情報技術者試験だけでもいくつか試験室があった.(香川ではこのとき応用情報技術者試験に253人応募し,175人が受験, 34 人が合格だったそうである.) 試験当日は「こんな地方都市でいったいだれが何のために受けているんだろう」と思ったものだ.そういう自分自身も何のために受けたのかはっきりしないところがあったが,あえて言えば,高校時代にコンピュータの科学者かエンジニアになりたいと思っていた期間が長かったことが挙げられる.実現できなかった「夢」に多少は近づきたいという思いだ.だがこういう試験のための勉強では,当然ながらエンジニアの面白さが分かるわけもなかった.べつの動機としては,図書館・情報機構に所属するボク以外の教員がすべてソフトウエア技術系の専門であるという事情があった.この試験のための勉強で得られる知識が,彼らとの意思疎通を改善するために役立つかもしれないという思いだ.

リマーク.試験対策の勉強というのは,学術書を読むのに比べると格段につまらなかった.ところが,よく勉強する大学生の多くが,じつは大学の科目の勉強ではなくて公務員試験や資格試験の対策をしているというのが現実だろう.それらと応用情報技術者試験などの情報処理技術者試験とは,準備のための勉強のつまらなさにかけては大差ないと思う.要するにたいていの資格というのは学問体系に沿っていないため,試験対策書も出題されやすい項目を羅列したようなものになる.これでは体系的な知識は得られないし,それぞれのテーマの分析も中途半端で疑問を解決できない.そういう勉強ばかりしていたらバカになるのは目に見えている.通常の大学の科目を勉強した方がはるかにおもしろいし,ためになるはずだ.ところが資格試験対策を重視すべきという大学教員がけっこういる.あまりいい傾向ではない.なかには元同僚の Y のように,自ら受験し (て落ち) た勇気あるひともいたけれど…….

それにしても試験会場はうるさかった.午前は (一部試験を免除されたひとたちの) 廊下を歩く足音がたくさん聞こえて集中できなかった.午後は耳栓をしていたけど,石清尾八幡宮の祭りの神輿が近くまで来ていたらしく,太鼓の音とかかけ声が聞こえていた.午後は問題が長文なので集中できないことの影響は大きく,できるはずの問題でつまらないミスをぼろぼろとやってしまった.

午前問題は計算問題が予想以上に少なかった.計算問題なのに用語が分からないのが3題はあって,うち2題は意味を推測しながら答えたがけっこう時間がかかった.それでも結果は80題中65題正解で,81.25点だった (ストラテジ系 25点中21.25点 [85.0%],マネジメント系13.75点中7.50点 [54.5%],テクノロジ系61.25点中52.50点 [85.7%],合格点は60点).80点で受験者の上位 1.47 パーセントくらいだから,後述の勉強法で通用するだろう.

午後問題は成績照会でも各問ごとの点数は表示されない (6問選択で,じっさいには問 2, 4, 5, 6, 9 の 5問に答えた; 分野はそれぞれ,プログラミング,システムアーキテクチャ,ネットワーク,データベース,情報セキュリティ).できは悪かったと言える.上述の騒音のせいが大きいと思うが,準備不足もあった.そもそも自信を持って薦められるような受験勉強法は見いだせなかった.(IT 業界での実地経験なしに受験すること自体あまり効率的でないという思いが消せなかったため,今回落ちたら諦めるつもりだった.) ボクが午後試験対策をした本 (アイテック『午後問題の重点対策』) に載っていた問題は問題文中に必要な知識が埋め込まれており,時間さえかければどうにかなるものがほとんどだった.しかし今回は知識問題が多かった気がする.じっさいアイテック (iTEC) のサイトの本試験講評に「[午後試験の] 問 3~問12の選択問題は,個々の問題テーマの内容に関してある程度の知識を理解していないと解答が難しい設問がいくつかありました」とある.そういうわけで以下の準備法は今後行われる午後問題には通用しないかもしれない.

それではボクの体験から抽出した応用情報技術者試験準備法をまとめておこう.午後についてはこれでいいのか疑問が残るが,午前にたいしてはじゅうぶん効果的な対策ができると思うものだ. じっさいの受験勉強はこの準備法よりは若干非効率で,8月上旬から10月18日の試験前日まで週5日ていど, (「平均」という割にはだいぶ幅があるけど) 一日平均4から8時間くらいやっていた.特に午前対策は身が入らなくてだらだらとやっていた.

1. あるていどのトピックのまとまり (「データベース」「ネットワーク」など) ごとに:

  • 『栢木先生の基本情報技術者教室』 (技術評論社) を読む.[各自が基本情報技術者試験対策でもちいた解説書でいいと思うが,栢木はイメージをつかみやすくて応用情報の準備にも意外と役立つ.]
  • 『応用情報技術者試験精選午前予想600題試験問題集』(東京電機大学出版局; 最新版は『応用情報技術者試験 午前 平成22年度版 精選予想500題+最新160題 試験問題集』) の該当章を読む.この際,必要に応じて大滝みや子,岡嶋裕史『応用情報技術者合格教本』 (技術評論社) の第 I 部 (知識のまとめ) の該当章を読む.[自分は大滝,岡嶋を最初に通読したが,ひじょうに時間がかかった.せめて柏木を先に読むのが賢いだろう.]
  • 『応用情報技術者 午後問題の重点対策』 (アイテック) の該当章を読む.[自分は試験場で選択した分野に対応する5章分しか読めなかった.]

2. アルゴリズム問題が苦手なばあい『ソフトウエア開発技術者 大滝みや子先生のアルゴリズム教科書』 (リックテレコム) を読む.[計画には入れていたが,自分は時間不足で省略.この本自体はすらすらと進められるはず.]

3. 必要に応じて『精選予想600題』を繰り返し [自分のばあい,二回目をできたのは1, 2 と 3章半分くらい],『午後問題の重点対策』を繰り返す.[ほかの問題集もやった方がいいかも.]

【2009/12/22 03:04 】
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