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バカルティ・ディベラプメント

安井という教授のサイト (とりあえずリンクしておくが,この教授のサイトはすぐ書き換えられるのでもと文書は見当たらないかもしれない) で,FD (ファカルティ・ディベラプメント) についてと思われる感想を見つけた.その教員は大学にはじめて職を得た当時授業を厳しくやろうと思ったが,ある先輩教授とちがって落とせばいいというやり方はしなかった.教員それぞれが自分の教育観を持ってやればいいと考えたそうだ.その文末にやや唐突に

「だから、合格率がどの授業でも同じになるなどということは、大学そのものの否定に等しいと思うのですがね」

とあるのは,FD あたりで「合格率を統一しよう」という一意見があったということなのだろうか.(学部として本気で考えているとしたらヤバいが.)

受講人数もレベルも将来の必要性もまちまちの科目間で合格率を統一するのはおかしいとはだれでも思うだろう.しかし (一年生向け入門科目とか,それを前提とした二年生向け科目とか) 同一レベルの多人数授業同士なら合格率を統一するのも悪くないのではと思うひとはいるかもしれない.だが,大学の現状を考えると,合格率を統一するという考えは想像以上に問題が大きい.

たとえば,「そもそも正しいやり方というのが分からないのだから,いろいろなやり方を競合させ,共存させておくべきだ」という理由もあるだろう.「カリキュラム上同一レベルの科目でも,その後の必要性に差がある.別科目履修の前提となるため,ある程度高いレベルできちんと理解してもらっておく必要がある科目もある.そのような科目で学生をいい加減に合格させると,教育プログラムが崩壊する」といった理由もあるだろう.

現状で合格率を統一するのが問題なのは,明らかにルール破りの,誤った合格率に統一される可能性が高いからだ. (悪い) ルールを無視するのが平気な自分がいうのもなんだが,単位制度は教室での 90 分 (2時間とみなされる) 授業にたいして 4 時間ていどの自習を想定している.ところが大部分の科目では,この制度の規定を無視して成績認定を行っている.過半数,いや 9割の学生が授業 90 分あたり高々 1 時間しか自習していないような科目で,なぜか過半数をはるかに超える合格が出ていたりするのだ.単位制度のルールにしたがえば,本来はほぼ全員を落とさねばならないはずだ.このようなルール破りの科目が大勢のなかで合格率を統一しようとすれば,統一された合格率は間違った不当なものになる可能性が高い.だから問題が大きいのだ.正しい者が誤った多数派に裁かれるのである.誤った方法を強制されるのだ.(いくら「正しいやり方は分からない」といっても,これだけ規定とギャップがあれば,それが「正しくない」ことに議論の余地はないだろう.)

もちろん,「まちがっていることは分かるが,学生の現状を考えると云々」という議論もあるだろう.教員がそういう生温い態度だからダメなのだ.教員側さえ心を入れ替えて厳格になれば,学生は数日で変わる.じっさい,卒業するつもりで米国の大学に留学した学生の多くは,日本の大学でのやり方ではダメなことをすぐに悟って勉学態度を変えるものだ.

もし安井の学部の FD でこんな議論をしていたとしたら,そうとう時間を浪費したんではないだろうか.そんな FD には出ないのがベストだろう.ところが FD というのは出ないと個人的には損をする仕掛けになっていたりするのでやっかいだ.

FD とはじつは BD (馬鹿ルティ・ディベラプメント) であって,研究しない教員がほかの教員の足を引っ張るための制度であると理解すれば,そういう仕掛けが出て来ることも納得できる.(いうまでもなく「研究」という言葉は,平均的な教員がいちばん「研究」していることになるように再定義されている.) もちろん FD に社交的な意義があって,単におしゃべりを楽しんでいるというなら,それはそれで悪くない.それが学生のためになっているのかというのは別問題としても.

つまり留学,学内委員免除,あるいは授業免除の優先順位をポイント制のような仕掛けで決めていたりするわけだ.たとえば FD に出ればポイントが加算されるなどと.そのため (気分の良いとはいえない) おしゃべりでしかない FD に出て教育改善に「協力する」ことが教員個人の観点からはベストになっていたりする.そしてみんなが「協力して」参加する結果,みんなが時間を浪費するというだれも望まない状態が実現する.ほぼ囚人のジレンマの構造だ.(大部分の教員が参加しているときにさぼる心理的コストはかなりのものだろう,ポイントもさることながら.大部分の教員がさぼっていると,ポイントをちょっと稼ぐだけでも得をする.教員の望まない状態が実現したとしても,それが学生にとってよいものなら,それはそれで意義もある.しかし現実は学生にとって悪いものになっている.) 状況が囚人のジレンマだから説得はむずかしいのだが,教員はもう少しモラルを持つべきだろう.この状況で「協力する」のは悪いことなのだ! その認識から出発して,ゲーム自体を作り変えて行く必要がある.

同じことはたとえば,出勤簿に印鑑を押すような裏切り行為にも言える.大学側に「協力する」とけっきょくは自分自身のクビを閉めることになる.

「学生の評価が高いのは若手教員である」のは,かなり長い間一貫してみられる現象だ.けっきょく,多くの学部で行われているような FD よりも,就職のための競争や若手だけが持てる時間のほうがずっと有効な FD の機会を提供しているわけだ.(在職期間が長くなるにつれて学生の評価が下がっているとしたら,大学の提供する FD の効果---足を引っ張るというマイナスの効果---が現れているとも考えられる.) 競争に晒されて来た (その結果いまどうなっているのか残念ながら確認できない) 若手の書いた「アメリカでの学部教育の技術: 戦略的教育とは何か」でも読んだ方が,へたな FD に参加するよりためになるだろう.集団的な FD はバカ教員にまかせ,互いの足の引っ張りあいをさせておけばよい.それが道徳的態度というものだろう.

【2006/10/21 18:53 】
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