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択捉の前,日本橋の前はどこ?

もと【2006/07/11 22:17 】記事

戸籍謄本・改製原戸籍謄本・除籍謄本を中心とした家系調査がほぼ完了した.(調査方法はメモを参照.)

自分の先祖 (特に父方) はけっこういろんなところに住んでいたんだなと思った.コンタクトした役所だけでも,釧路地方法務局根室支局,根室市,函館市,東京都中央区日本橋特別出張所,横浜市西区,徳島県海部郡美波町,香川県三豊市,宮崎県延岡市,宮崎県東臼杵郡門川町,宮崎県東臼杵郡美郷町,宮崎市,北九州市小倉北区となる.いや,それだけではなく,「むかしは日本も広かったんだ!」と思った.入手できた戸籍に限っても,択捉島で生まれたあるいは本籍のあった直系尊属もいれば,朝鮮で生まれた傍系もいれば,樺太に婚姻届を出した傍系もいれば,沖縄で死んだ傍系もいた.戸籍には現れないけど,祖父は満州の瀋陽にいたこともある.

家系図作成,本籍地・出生地・死亡地特定はそのうち着手するとして, 先祖の本籍地にはえらく辺鄙なところもあれば,東京のど真ん中の日本橋もあった.辺鄙な方の代表と言えば,やはり千島国紗那郡紗那村 (しゃな) だろう (「北海道千嶋国紗那郡紗那村にいた先祖」参照; 択捉と香川の関係については「庄内半島でラッキーなモーセ体験」で憶測を述べた).現在は北方領土と呼ばれている択捉島では中心的な街だが,択捉島自体はいまだに村と村との間の境界もはっきりしないようなところだ.(たとえば岡山と香川の間にも「境界未定地域」はあるけど,これは例外的.択捉では境界がひかれている場所のほうが例外なのだ.) 日本橋にせよ択捉にせよ,その土地に先祖代々土着だったとは考えにくい.どこからやってきたのかは分からなかった.

土着の可能性が高いと思われるのは以下の先祖である.遡れる本籍でいちばん古く,安定しているものをリストする (F は父親,M は母親,f は養父,m は養母を表す):

  • FMF (父の母の父) 以前 (FMF 安藤清太郎,その弟安藤庄治郎,FMFF 安藤嘉四郎の家系).ただし FMF とされる安藤清太郎が FM キヨの実の父であるかどうかはあやしい.香川県三豊郡詫間村.
  • FMf (父の母の養父) 以前および FMm 以前.香川県三豊郡詫間村および下高瀬村.
  • FFFM 以前 (FFFM 菊池ミネ,FFFMF 菊池勝美の家系).山形県飽海郡勝俣関村.
  • MFF 以前.徳島県海部郡.
  • MFM 以前 (MFM 柏田サカ,MFMF 柏田福治の家系).宮崎県東臼杵郡北郷村.
  • MM 以前 (MMF 小野大蔵,MMFF 小野瀧蔵の家系).宮崎県東臼杵郡門川村および冨高村.

一方,土着の可能性が低いのはいうまでもなく日本橋あるいは択捉に本籍を置いていた父方の祖先である:

  • FFF 以前 (FF の伯父遠藤三春,FFFF 遠藤自彊の家系).FF の伯父遠藤三春の本籍が,横浜市戸部町以前に東京市日本橋区蛎殻町にあった記録あり.除籍謄本自体は,横浜までしかさかのぼれず.FFF の供雄は大正2年に横浜に本籍が移った時点あるいは大正12年の関東大震災後に戸籍を再生した時点で亡くなっていたようで記載なし.日本橋の戸籍が除籍になったのは大正2年であり,中央区から「大正3年以前の除籍簿は,再製の資料がなかったため,再製していない」と告知があったとおり,除籍謄本は入手できず. 日本橋の蛎殻町は明治になって先物取り引きなんかの金融の街になったそうである (関係ないが,先物ってのは意外と古い金融商品なんだよね).祖先が証券会社かなにかをやってたという話とは矛盾しない.蛎殻町は江戸時代は大名屋敷だったからそこにいたわけはない (ただし [秋田城の?]殿様につかえる医者だったとも聞くから,可能性は皆無ではないかもしれない).遠藤家がどこから日本橋にやって来たのかは謎である.
  • FMM 以前 (池田重久,池田重太郎,FMMF 池田甚吾の家系).明治 33 年 (1900 年) 生まれの FM キヨは択捉島の生まれであるようだ (紗那村外二ヶ村に出生届がある).キヨの出生日に香川籍 FMF 安藤清太郎との婚姻届を出した FMM 池田スシは千嶋国紗那郡紗那村74番地の FMMF 池田甚吾の長女で,明治14年生まれである.入手できた二通の択捉の戸籍は残念ながらいずれも FMMF 池田甚吾を戸主とするものやそれ以前のものではなく,その長男池田久次郎を戸主とする紗那村45番地のものと,甚吾の次男の長男池田重久を戸主とする紗那村72番地のものであり,スシの名はなかった.ただ,甚吾の妻で慶応 3 年 (1867 年) 生まれの (FMMMF 池田甚兵衛の長女) FMMM 池田テイは,久次郎を戸主とする紗那村45番地に本籍を置いた後は,重久にともなって紗那村72番地,北海道根室郡根室町,北海道函館市蓬莱町と本籍を移し,昭和 7 年 (1932 年) に函館で亡くなっている.(なお,池田重久はその後東京都世田谷区大蔵町に転籍.) いずれにせよ,池田家がどこから択捉にやって来たのかは謎である.

メモランダム

  • 大正北海道元標」によれば,「紗那村外二箇村元標」という道路元標が紗那郡紗那村字紗那七十二番地先に置かれていたようだ.この 72番地ってのは本籍のと同じなのだろうか.
  • 紗那郡紗那村45番地の除籍副本に「紗那外貳村戸長役場」「北海道紗那郡紗那有萌別飛戸長之印」の印鑑がある.マニアなら泣いて喜ぶ印鑑らしく,コレクターの間では高値で取引されているらしい.というのは冗談だが,レアものであるにはちがいない.枠外にある印鑑がここまで読める戸籍もめずらしい.あるいは謄本にはそもそもこういう印鑑がないのかも.これは副本だからだろうか?


    マニアが泣いて喜ぶ印鑑?

  • いつごろから日本人が択捉で生まれていたのだろうか? 入手できた戸籍では,紗那村45番地の戸籍に「明治参拾壱 [1898] 年拾月参日出生届出同日受付」とある池田政次郎 (FMMF 池田甚吾とテイの三男) のがいちばん古い.ただ,政次郎の記録は紗那村72番地戸籍では「出生事項基本戸籍ニナキヲ以テ記載省畧」となり,根室郡根室町戸籍では「紗那郡紗那村七十二番地ニ於テ出生」「出生ノ場所及届出人ノ資格氏名届書ニ因り記載ス」とある.記録していなかった出生地を後に追加したということだろう.
  • FMMF 池田甚吾の死亡により,その長男池田久次郎が明治43年6月家督相続で戸主となっている (届出は9月).ところが甚吾の次男重太郎が同年9月に分家し,甚吾の残りの子6名が11月に重太郎方へ入家,甚吾の妻テイが12月に重太郎方へ入家している.つまり久次郎は戸主となって数ヶ月のうちにひとりになっている (ひとり残った久次郎自身が除籍となるのは釧路に転籍した大正 7 年だからだいぶあと).なにかあったんだろうか? たいしたことじゃないかな.
  • FMM 池田スシの弟 (FMMF 池田甚吾の次男) 重太郎の妻サトは,出身地が「紗那郡紗那村字チリシクシナイ」となっているが,この地名はネットで検索しても出てこない.「チリシクシナイ」「チリセクシナイ」いずれもヒットせず.つまりインタネット・バージンな地名かも.この地名の載った戸籍こそコレクターが欲しがるかも (笑).調べ方が悪いせいだろうか,全47巻ある角川日本地名大辞典では見つけられなかった.(CD-ROM 版もあるみたいだが,わが大学にはなさそう.) 一方,吉田東伍というひとの『増補 大日本地名辞書』(冨山房. 明治42年初版, 昭和45年増補版) の「紗那」の項目には,「チリセクシナイ川」というのが載っていた.「チリセクシナイ川は源を三角山に発し,其下流は紗那川に会す」とあるので,少なくとも下流の近くはいまでいう「振別川」に当たるだろう.『増補 大日本地名辞書』にょれば,函館を基点として根室を経由して紗那に来る定期船も月三回あったらしい (冬期を除く).おおっ! 池田一族が移り住んだ場所とおなじではないか.
  • この,重太郎の妻サト (明治31年 [1898年] 生) という女性も謎の人物だ.父が金政吉といって日本人らしからぬ名字を持ち,しかも紗那村字チリシクシナイにいたのも珍しいかもしれない.サトの生まれた時代は,1876 年の日朝修好条規による朝鮮の開国と1910 年日韓併合の間にあたるが,詳しい背景は分からない. サトは大正4年に結婚した夫重太郎が大正9年に亡くなったあと,重太郎の弟政次郎との婚姻を大正13年4月30日届け出るが,数日後の同年5月6日には協議離婚届出をしている.そして昭和7年に長野県北安曇郡の人と結婚したけど届けは樺太の元泊郡知取町に出している.ふたたび北方領土に「帰って」いったのだ! 一方,サトと数日で離婚した (明治31年紗那生の) 政次郎は数年後の昭和2年に再婚するも1ヶ月後に妻を亡くし,次の昭和3年12月に三度目の結婚をして,昭和4年4月に生まれた長男は嫡出子の身分を取得している.政次郎はその直後に分家したので,その後の消息は分からない.

リマーク (経済理論にかんする近日公開予定記事の予告編)

ある有名な問題のすごく単純な解決法を見つけた.ここに書くだけではもったいないので,まずはワーキングパーパーにまとめてどこかに投稿してみようかしらん.いいたいことは数行で済むのだけど,それだけじゃ蹴られるかなあ.

追記 (11/20/2007).

金政吉が択捉に住んでいたのは,フジサンケイ ビジネスアイの記事にあるポーツマス条約よりだいぶ前なんだよな:

「サハリンの人口約53万人のうち4万人が朝鮮人といわれる。1905年のポーツマス条約で北緯50度以南が日本領となった後、多くの朝鮮半島出身者が徴用などでサハリン [樺太] に渡った。」

「しかし、敗戦後は「朝鮮人は日本人ではない」という理由で日本の引き揚げ対象とならず、旧ソ連が資本主義圏の韓国への帰国も認めず「サハリン棄民」と呼ばれる事態が発生した。」

【2007/11/20 07:23 】
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気になるネットワーク
前回記事「ゴールデンウィーク雑記: パソコン編」では,階層的組織とかツリーとか家系図の作成などの話が出て来た.これらはグラフ理論でいう「グラフ」あるいはその拡張として表現できるだろう.グラフとその簡単な拡張は「ネ ある平凡助教授の,なんということもない日々【2007/05/05 15:45】
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