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「典型的な大学教員の典型的な日常を描くシリーズ」の意味

「去年の干支である酉の形をしたろうそくも,完全に形がなくなる程度には使い切ってしまった.過ぎた年に思い残すこともなかろう.溢れたロウが寄り集まってふたたび怪物が形作られて蘇る不安はないわけではないけど」.そう思って始まった2006年であったが,元旦から風邪を引いてしまった.正月三ヶ日は計画していた奉仕作業 (ジャーナルのレフェリー) にも着手できず,ほとんどずっと寝込んでいた.悪との闘いに備えさせるため,神様が「休め」とシグナルを送っていたのかもしれない.

さて,今年はどういう年にしようか…….などと病床で考えていたとき,自分はこのブログの真の狙いや戦略についてまともにひとに説明したことがないことに気づいた.当たり前か.まだプレイは続行中だからな.でも,つまらない批判でゲームを妨害しようとするバカが現れないとも限らないこのごろなので,ここで画面を中継席に移して,新進気鋭の批評家に《ある平凡助教授の,なんということもない日々》について解説してもらうことにした.


I (インタビュア): 《ある平凡助教授の,なんということもない日々》とは何か,簡単に視聴者のみなさまに説明してくださいますか?

C (批評家): ウエブログでしょう.

I: ひじょうに簡潔な,分かりやすいご説明ありがとうございます.では,そのブログの狙いについてどうお考えですか?

C: 一般論として,個々のブログについて,その狙いを見定めることは簡単な作業ではありません.おそらくブログの作者自身が狙いを分かっていないケースも多いでしょう.しかし,狙いが分かりやすいこととブログとして魅力があることとは必ずしも一致しません.その点に関しては,私の著書『weblog 論 試験対策 新スタンダード 4600円プラスタックス』(合格を諦めてしまった受験生が読むとためになるシリーズ, 敗北社) を買ってもらえばいいんだけど,ここで言わないといけないかな?

I: いや,それはいいですから,平凡助教授のブログに絞って,その戦略などを説明してもらえますか?

C: No problem. No problem だよ,I さん! 平凡助教授のブログは,「典型的な大学教員の典型的な日常を描くシリーズ」とある通りです.フツーの大学教員の実情を伝えるという,ひじょうに分かりやすい狙いがある.しかし,これだけではプロの批評家として食って行けなくなるんでテキトーなことを言わせてもらえれば……アハハ,I ちゃん独身なんだって?……スタッフのみなさん,ここんところはカットしてくださいね……こんどよかったらプライベートでどうでしょう? ボクのマンションにはかわいい子猫ちゃんとかウサギちゃんとかいたりして.ウフフ.ウヒッウヒ.

[一部省略]

I: たとえばどうして「平凡」なんて単語を採用したんでしょうか.書いている記事の内容は,「平凡」というよりもかなり極端なことが多い気が私はするんですが.

C: Web を徘徊してみると分かりますが,「平凡」という単語は weblog 界では一時期トレンディーな言葉だったんですよ.どうせ深い考えもなくそれに飛びついたというのが真相でしょう.という部分はカットしてもらうとして……私は,平凡助教授のあり方は,大学人としてもっともまともで,正統的で,スタンダードで,そう,真の意味でもっとも平凡なものだと思うんですよ.さっき「フツーの大学教員の実情を伝えるのが狙い」的なことを言いましたよね.ほとんどその通りなんですよ.もちろん個人情報や機密もあるだろうから,「実情」はある種の抽象化と具象化のプロセスで変換はされているはずですが.「学問をする場」という大学の原点に愚直なほど忠実に従い,自由を守ってアカデミズムに徹しようという激しい闘いがそこにはあるし,一見極端に見える世界も,アカデミズムに徹しようという決意の発露の情熱の発明の危機の情報の不死の広告だと,ある高名な批評家がおっしゃっていました.はっは.私のことですが.(編集局注: 「情熱の発明」「危機の情報」「不死の広告」は田村隆一「三つの声」から引用.) で,彼あるいは彼女の学問分野を見ればこの結論はほとんど必然的なんですよ.平凡助教授の専門ご存じですか?

I: 「社会選択とゲーム理論」だそうですね.社会選択理論という分野は倫理学にも関係があるとどこかで聞いたことがあります.ゲーム理論家というのはやけに賢くてサッカー選手みたいにかっこいい教授が多いと [東大卒の] ある友人が言っていました.

C: いい点に気づきましたね.同じ分野をやる学者でも,外見は一流ファッションモデル並みから下手物までばらばらということは珍しくありません.(もっとも,地方大学で公募しても軽く30倍は越える応募がある,競争の激しい「ミクロ経済学」分野のばあい,最有力供給源であるゲーム理論家には,大学院段階で美顔度も含めた厳しい足切りが行われているとの説もある.) ちなみに,かっこいい云々というのは《非協力ゲーム》や《契約理論》といわれる分野の話であって,平凡助教授のわずかな貢献のある《協力ゲーム理論》とは別世界です.

私は平凡助教授のブログは,「倫理学としての社会選択という学問の実践」という性格を持つものと見ています.倫理学絡みはあとで話すとして,まず社会選択をふくめた経済理論の手法である「社会現象を数理的なモデルに単純化すること」に似た営みがこのブログで行われていることは明らかでしょう.じっさいはほとんど事実ばかり書いているという説もありますけど,いったん事実にたいしてある種の抽出作業をしているなと思われる部分は多いです.それで,社会選択のばあい,いったん現象を抽象化したあと,ふたたび「例」としてかなり具体化する,現代詩的な手法を多用しているのです.たとえば大御所であるアマルティア・センは,ミニスカートとか猥褻本とかにかかわる例が好きですね.平凡さんのブログでは抽出した抽象表現に留めずに,物語として再構成するわけですね.抽象化を一度通したのだから,ある面では現実離れした極端な設定にならざるをえないのは理解できるでしょう.社会選択理論家のおもしろいのは,やむを得ずそうするというより,わざとそういうぎりぎりの世界を追求するところです.

自分の首に縄をかけてその縄をじわじわ吊り上げながら,「どこまで吊り上げれば死ぬだろうか?」と問い続けているのが社会選択理論家たちなんですよ!

I: もう少し説明してもらえますか? そして,それは社会選択理論という学問分野特有の話でしょうか?

C: 《公理的方法》をもちいる数学的分野なら多かれ少なかれ当てはまります.自分が手にしたいモノでも恋人でも,数学でいう関数でもなんでもいいですから,ある《対象》を想像して,その対象についていろいろと要求 (条件,公理) を考えてみてください.値段はどう? 性能は? すぐ入手できるか? いくつも条件を重ねて行くと,やがてそれらをすべて満たすような対象はなくなるかもしれません.そうなる前にどこまで要求を重ねることが可能か? そういうはみ毛ギリギリの境界部分を探ろうとするのが公理的方法の特徴です.(詳しくは以下のペーパーを参照: William Thomson. On the axiomatic method and its recent applications to game theory and resource allocation. Social Choice and Welfare, Vol. 18, pp. 327-386, 2001.) それで,公理的方法を用いる分野の中でも,対象が社会現象である点で社会選択理論はかなり特殊です.「ギリギリ」が社会的・倫理的意味を持つのです.個々の《要求》が個人の自由とか,幸福とかの価値に関わることが多いわけです.自分自身を倫理の断崖絶壁に常に追い込もうとするのが,社会選択理論家の性 (さが) なのです.はみ毛やパンチラの探求にも通ずる,高邁な性なのです.

さっき倫理学との関係はあとで話すと言いましたけど,倫理学はたとえばロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』に見られるように,思考実験のためにいろいろと極端な状況設定とか装置 (「経験機械」「ニューカムのパラドックス」など) を駆使します.で,私見では,そういう設定や装置をもっとも先鋭的な形で用いて来た最前線の戦士たちが,社会選択理論家だったのです.

I: 社会選択理論家はみなさん平凡助教授のような mind-set (物の見方) をしているでしょうか?

C: ハハハ.どうなんでしょうね? べつに平凡助教授ように真の意味で平凡に徹した表現活動を行っている社会選択理論家がごろごろいるとは言いませんよ.ただ,倫理的な問題との距離をどう取るかにかかわらず,「不可能と可能との断崖絶壁を歩きたい」というか,不可能と可能との境界を知りたい欲求は強いんじゃないでしょうか.でも,自分の首に縄をかけるような刺激的な営みも,エッチな DVD を見続けると飽きるのと同様 (私は見たことがないので知らないが),繰り返すと刺激がなくなるんじゃないですか? スリリングであるはずの活動も,産婦人科医のように仕事にしてしまえば,刺激を失う.他の社会選択理論家は不感症になってしまっても自分自身に特に問題を感じなかったが,平凡助教授の場合は不感症状態を我慢できず,公理的方法本来の刺激に近い別物を求めて立ち上がったということではないでしょうか.

I: 最後の質問です.ブログに「残虐な」写真を掲載した学生が宮崎大学で処分された事件が2005年12月にありました.このような表現弾圧とのかかわりについてどうお考えでしょうか?

C: 問題になった写真だけでなくもっともっと残虐な映像も入れた上で,生命の大切さを訴えかける《映画》としてまとめ,作品として研究会ででも発表していたとしたら,学生たちは大学に表彰されていたかもしれませんね! ウヒウヒッ.


再び画面は平凡助教授だ.批評家 C は「不感症状態を我慢できず」とか,「倫理学としての社会選択という学問の実践」とか,勝手なことを言ってくれたが,大筋では間違っていない (かもしれないニャン).物事は多面性を持つ.なかには平気で表現を弾圧する破廉恥な宮崎大学医学部のような,とことん《悪》という存在もあるだろう.だが,たいていの物事には良い面も悪い面もあるものだ.たとえば自殺希望者サイトにたかる殺人鬼は,自殺希望者の望みを叶えてくれそうなので一見善き存在に見える.しかし少し考えると,実は自殺希望者は単に死ねばいいと思っているのではなく死に方にもこだわることが想像できるので,とても注文通りの死に方を提供しそうに思えない彼ら殺人鬼は,悪しき存在に見えて来る.ところが殺人鬼にたいする自殺志願者の反応まで考えると,ふたたび殺人鬼が善き存在に見えて来る.彼らの存在が安易な自殺を抑止するからだ.この「社会問題」にたいする,これ以上優れた抑止力は残念ながら自分は思いつかない.

自殺志願者補助役殺人鬼のような実力行使は排除し表現に徹したい反面,このブログもある意味で彼らのような存在でありたいと思う.読者に自分で考えることの大切さを知ってもらいたい.そのための材料 (日常的ものから非日常的なものまで) を提供したい.大学の最大の存在意義もそこにある.つまり,このブログこそが当たり前な大学教育の忠実な実践なのだ! 世界でもっとも平凡 (まとも) な大学のあり方がここにある! 世界でもっとも平凡 (まとも) な学者の姿がここにある! あなた方は,ここに狂気を脱した本物の大学を見るであろう.

おっとそこの兄さん姉さん,「このブログに描かれている大学がもっともまとも」などと勘違いしちゃあいけないよ.「ここ」っていうのはもちろんこのブログのことだ.描かれているふつうの大学の狂気のことではない.

【2006/01/06 16:18 】
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