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大学評価・学位授与機構は社会主義者の陰謀か?

以下にコンテンツ相互提供を合意した提携サイトから削除されたエッセイをそのまま掲載する.文章自体は古いが,大学評価・学位授与機構というやつはまだ消滅していないので,今日的意義は失われていないであろう.


大学評価・学位授与機構は社会主義者の陰謀か?
2003年2月27日
by 三原麗珠

"Windows"という集産主義(colletivist)仕様のオペレーティングシステムを使わなければすぐには解凍できない圧縮ファイルから現れたのは,ほんの数ページの文書ファイルだった.わたしたち研究者はあきらかに官僚的発想でつくられたこのファイルの悪趣味な書式にしたがって「個人別研究活動判定票」を作成しなければならないのだ.それぞれのページのほぼ全体は可視的な太い枠で意図的に囲まれており,わたしたち研究者がその枠からはみ出すことにたいしてあからさまな脅しを突き付けている.刑務所の独房を思わせる束縛的な表で占められた第1ページは,文書の様式は旧式タイプライターで打てるようなものが基本であるという学界の伝統を無視し,学者たちを惑わして集産主義思考に陥れその枠にはめ込もうとする官僚主義者の陰謀に満ちあふれている.「代表的研究活動業績」を記入するというその表の醜さは,論文の文献情報を記入する枠がページ幅の3分の1もないことに端的に表れている.

一本の論文の文献情報のために,彼らはわたしたちを何度改行させれば気が済むのだろう!

そもそも研究評価は,研究者間・大学間の相互評価で行うはずではなかったのか.なんで「大学評価・学位授与機構」という政府系機関が介入するのだ! 溢れる怒りを抑え,半ばあきらめた気分で私は政府の「分野別研究評価」のための文書作成に着手した.

次の疑問が私を襲うまでにほんの数秒もかからなかった.
「私はいったい何人分の書類を用意すればいいのだ?」
日本人の研究者の多くは,日本語で論文を発表するときは漢字と仮名で名前を書き,英語で発表するときはローマ字で名前を書く.英語の論文の著者名を漢字と仮名で通そうとする者は少ない.そのような研究者の著作を引用するときは注意が必要だ.日本人であるかどうかは不明だがたとえば"H. Reiju Mihara"という著者による文献の著者を「三原麗珠」と引用しては技術的に正しくない.この考えにしたがえば,氏名欄に「三原麗珠」と書いてしまっては H. Reiju Mihara による著作を載せられなくなる.すべての著作を載せるためには,漢字表記とローマ字表記の両方で氏名を書かなければならないはずだ.ところが大学評価・学位授与機構によるその書式では,氏名を書く欄がひとつしかなく,どうやって表記すればいいのかはっきりしないのだ.いろいろ迷った挙げ句,私は"H. Reiju Mihara (三原麗珠)" という表記で1通だけ書類を作ることにした.外国語と日本語の両方で論文を書く学者は,大学評価・学位授与機構にとってやっかいで迷惑な存在ということなのだろう.

間もなくその次の疑問が私を襲った.「現在の専門」を書く欄があるのだ.しかしその一方で業績は過去5年のものを書くようになっている.「5年」という不吉な数は社会主義経済の「5ヵ年計画 (Pjatiletka)」から来たのであろうが,それはとりあえず置いておこう.評価は申し出た「現在の専門」にしたがって行われるはずだ.しかしその現在の専門が過去の業績とまったくちがうことは大いにありうる.そのようなばあい正直に現在の専門を申告してしまえば,ちぐはぐな評価を受けることになるだろう.ただしく評価されるためには,うその専門を申告しなければならないのだ.これは大学評価・学位授与機構の初歩的な設計ミスでないとしたら,何か隠された意図があるはずだ.政府がいったん与えた専門を学者が勝手に変えることのできない計画経済型の大学システムを構築しようという陰謀が,そこに読み取れる.

大学評価・学位授与機構の用意した醜い書式の問題点は上に留まるものではない.書式のさまざまな問題点は,それじたい大学評価・学位授与機構をあやつる者たちの陰謀を間接的に顕わしている.しかし大学評価・学位授与機構による研究評価は,もっと直接的で根本的な重大な問題をはらんでいる.それは歴史の歪曲である.社会主義者・集産主義者の都合に合わせて大学の歴史が書き換えられようとしているのである.つぎにそれを暴こう.

社会選択理論の基本的メッセージのひとつは,個人と同様の合理性を集団には期待できないことである.その基本的メッセージを持ち出すまでもなく,集団が「意図」を持つなどと考えるのは無理があることはだれでも分かるだろう.「意図」とは単にある主体が合理的・整合的に行動できることをさす概念ではなく,その主体が意思をもって行動することを示唆する概念だ.しかし集団は意思を待つような主体となりえるとはとてもいえない.それ以前の問題として,集団は合理的・整合的な行動さえとれないのだから.しかし大学評価・学位授与機構の「自己評価実施要項」(平成14年12月)には
「『研究目的』とは,研究活動等を実施する全体的な意図を……いいます」
(たとえば15頁)とあり,あたかも大学や学部や研究科が「意図」を持つ主体であるかのような語法が用いられている.(おそらく大学評価・学位授与機構自体がある意図にあやつられた存在だから,そのような語法が自然に出てくるのだろう.) その記述は単なる語法と呼んで済ませるには問題が多すぎる表現である.それぞれの学部はその「研究目的」を書かなければならないようになっているからだ.その記述ゆえに,研究者たちは多大な時間を割いてその学部の「研究目的」なるものをでっちあげることに奔走しなければならなくなっている.

大学に属するほとんどの学部は,研究機関としての目的など持たない.(教育機関としての目的ならば考えられないこともない.教育は研究ほど不確実性にみちていない.) 民間企業の研究所や,国立でも小さな研究所や層の厚い分野の研究所ならば,その機関の目的をはっきり持つこともあるだろう.その目的に沿う研究者たちが集まっているのだから.しかし大学のふつうの学部にあつまるのは,それら以外のいわば残りの研究者である.ひとつの研究目的を追求するために集まった者たちではない.しかも学部の機能は研究だけでなく教育もある.目的を共有するには機能が多すぎるのだ.

目的を共有できないそのような研究機関が研究成果をあげるためにはどうすればいいかは,明白である.正攻法でないひとつのやり方は目的を共有できるように機関を変えることであり,それはたとえば例外的に生産的な研究者を連れてきてその人にリーダーシップを取らせることで実現できることもあるかもしれない.しかしそれは正攻法ではない.正攻法は,それぞれの研究者の自主性に任せることでる.あらゆる障害を取り除き,自由放任を徹底するのである.研究機関はアナーキーを追求するのがもっとも効果的であり,たいていのばあい(障害を取り除ける度合いはいろいろあろうが)それが唯一の実現可能な選択である.全体の目的など定める計画経済型の手法ではだめだ.

しかし計画経済型の大学研究システムを信奉する大学評価・学位授与機構は,それを認めたがらないだろう.「ある具体的な計画があって,それに向けて集団一丸となって努力した結果,よい結果を出せた」という社会主義的サクセスストーリーに沿わないものを彼らは受け入れないだろう.大学評価・学位授与機構と喧嘩しても何も得にならないわれわれ研究者はそのように予想したうえで,事実に合わない無難な「目的」をでっちあげていくのである.過去に存在しなかった「目的」がでっちあげられ,それの実現に学部構成員が努力したという嘘で大学の歴史が塗り固められていく.大学の本当の姿を後世に伝える記録はほとんど残ることはない.

リマーク (3/3/03) こんなのも「謀略論」っていうのかな.「目的をもたない研究機関が研究成果をあげるためには,自由放任を徹底すればいい」というところは論理の飛躍が大きかったかもね.ところで今朝の Japan Times Online の Opinion で Sawa, Takamitsu が,大学評価はソビエト時代の公共機関のような大学を作ると指摘していました.私と意見のほとんど合うことのないこの経済学者までもがこう指摘しているということは,案外多くの研究者が大学評価・学位授与機構のやり方に危惧を感じているのかもしれませんね.

Individualism, the foundation of liberty and democracy, is undeveloped in Japan. For better or for worse, Japanese are bound by groupism. Ongoing national university reform includes plans to evaluate accomplishments of universities, schools, research institutes and other groups, instead of individual professors. Under these plans, universities will be reorganized to resemble former Soviet-style institutions.

リマーク (7/06/03) Sawa, Takamitsu が大学評価についてもっと本格的に書いた記事はこちら.

リマーク: コンドルセ,ボルダ,アロー,そしてミハラ? (7/07/03)

大学評価・学位授与機構に提出する書類のひとつに「代表的研究活動業績の特色及び強調点」というのがあって,自分の研究の独創性・有用性・発展性などの根拠資料として「研究成果が反映している報告書,新聞記事など」を添付しろとある.「何を考えているんだ! 社会科学の最前線の成果はふつう新聞には載らないものなの.特にぼくのようなバリバリの純粋理論が新聞に載るわけない!」そうは思いつつも,自分を引用してくれた論文くらいなら見つかるだろうということでサーチエンジンでInternetを検索してみた(ほんとうは Web of Science があればいいのだが).意外なことに,新聞記事とはいわないがそれよりはマシな 科学ジャーナリスト (ABCNEWSとかに寄稿しているらしい) の記事にぼくの名前が出ていたのだ.あの National Science Foundation の支援ではじめたという科学教育サイト The Why Files の2000年の11月の記事の最後あたりに,

投票システムにかかわる理論上の問題点はアローが [不可能性定理を発表した] 当時理解していたよりもいっそう深刻なものであることを,H. Reiju Mihara などの最近の研究が証明している

とあるではないか!しかも投票理論家として挙がっているのが18世紀のコンドルセとボルダそして20世紀真ん中のアロー,そして世紀末のミハラの4人だけというのはちょっとばかり (笑) 不公平じゃなかろうか.でも大学評価・学位授与機構に提出する書類には「他の投票理論家3人[誰々]とともに H. Reiju Mihara の名前が挙がっている」とそのまま書いておくことにしよう.しかしなあ,ジャーナリストの記事が独創性なんかの根拠になるというのはやっぱり何かおかしい.科学者のひとりとして憂慮するぞ.

【2005/06/20 20:24 】
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