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ミクロ経済学をどう教えるか

大学は来年度の教養科目の担当者を決める時期だ.教養数学を担当する教員は,なぜか経済学部と法学部に皆無である (異常事態!) 一方,GSM には 3人もいる.教養科目をとる GSM 学生はゼロだが,できれば今後も教養教育への協力は続けていきたいものだ.その前提として,(法学部と経済学部がやっている) 夜間主の教養数学くらいは経済学部で担当すると期待したい.

補足.教養科目の受講生がゼロである GSM については特別の配慮をするというのは約束だ.実際問題として,(GSM の科目もほとんど夜間であることから) 夜間の科目を引き受けることはGSM の時間割編成への制約を著しく高めるので,できるだけ避けたい.経済学部には数学のできる教員は多いし,夜間主教養数学の開講は数年に一度だけなので,まさかやれとは言ってこないだろう.

上記の前提はクリアできたとして,教養数学の担当者を GSM からひとり選ぶためには,関連科目の担当も決めたほうがいい.そこで教養数学をローテーションして来た三人で意見交換した.担当自体はすぐ決まったが,議論はその他の科目,特に「経済分析」(はじめてのひとを対象にしたミクロ経済学) におよんだ.どういうレベルで教えるかである.

補足.内容についてはほぼ合意できている.部分均衡分析プラス一般均衡分析をもちいた標準的な価格理論だ.MBA プログラムだから組織経済学や Managerial Economics (ビジネス・エコノミクス) を重点的にやったほうがいいんじゃないかと個人的には思わなくもない.しかし,じっさいに取る学生がビジネス系は少ないことや,経済分析を要求する科目が価格理論を要求していることなどを考えると,それはむずかしい.満足できるような MBA 用の経済学の本はどれも分厚くて 2単位ではカバーできないという事情もある.自分が担当するとしたら,組織経済学を多少意識してシグナリングやエージェンシー理論といった情報経済学を一回入れるていどだろう.梶井の『戦略的思考の技術』も大部分は不完備情報の話だし,それが傾向というか現代職業人としての教養だろう.

具体的には,同僚の工学者のひとりが予算制約下の効用最大化をラグランジュ乗数法でやりたいという.彼がやる分には異論はないが,ボク自身はそういうテクニックに類することを教えるのは気が進まない.もっと直観的に

「無差別曲線の接線の法線ベクトル (効用関数がもっとも増加しやすい方向) が予算制約線と直交する.(無差別曲線の接線の法線ベクトルが予算制約線の法線ベクトルと同じ向き.) 要するに,予算線に沿ってどう移動しても効用の増加にはつながらない状態」

と言えば同じことだ.二次元の商品空間のグラフで説明すれば十分だと考える.もちろん経済学の科目が充実しているならば彼のように数学的にやりたいところだが,ミクロ経済学を2単位しか教えないという現実を前にすると,もっとほかに教えるべきことがあると思ってしまう.(経済学のプログラムを充実させる手もあるが,受講者が増えるとも思えない.じっさい過去二年の経済分析の受講者はほんの数名だった.)

補足.ほかにも同僚は自分の講義ノートで教えることにこだわりがある.自分の研究経験にもとづいて重要そうな知識を集めて,自分なりの教科書を作りたいそうだ.たいへんそうだ.経済学は既成のテキストを教えればいいと割り切る自分としてはすごいなと思うばかりだ.ただ,そのアプローチでは,現代の若手理論家はほとんど価格理論を教えないことにならないかなあ.研究で必要になる知識は,新たな研究の生産につながりやすい現時点での「限界生産性」の高い知識であって,学問体系から見て核心的知識とはかぎらないし.そういう注意は必要だろう.

ボク自身がテキストを用いるのは,学生に経済学者の書いたテキストを読んでもらいたいという思いもあるからだ.書物には講義ノートや講義では伝えられない思想---というか思考様式がある.数学ではそれらはそれほど重要ではないかもしれないが,経済学では重要だ.それらを学びとってもらいたい.数学が得意でない学生は「なにをやっているのか」を理解できてはじめて,数学モデルに進める.彼らが数学モデルからはじめても,式の展開に追われるばかりで,(式の展開を理解したら安心してしまい) 経済学的な内容が頭に入って来ないのがオチだろう.もちろん単位の制約を前提にした主張である.

さらに同僚は数学,経済分析,ゲーム理論,オペレーションズリサーチ,その他応用経済学科目といった,異なる科目で同じ話題を扱わないようにしたいともいう.しかしミクロ経済学のような抽象的な話は,何度もやってはじめて分かるものだ.(一年目「ミクロ経済学入門」で2単位,二年目「ミクロ経済学」で4単位,そして3年目「数理経済学」あるいは「一般均衡理論」で同じ話題を扱うというのが典型的な学部プログラムだろう.) 受講生が関連科目をほぼ完全にマスターしていたとしても,やる価値がある繰り返しは少なくない.ある程度の繰り返しは望ましいのだ.もちろん学期はじめの何時間もかけて復習ばかりやるというのは問題だけど,それぞれのトピックを始めるとき関連知識を手早く確認するくらいは積極的にやったほうがいい.学生はどうせ忘れているか,あるいは覚えていても,あらためて短時間でまとめたのを見ることにより理解が高まるはずだ.たとえば消費者選択からはじめてエッジワースボックスでの厚生経済学第一命題までを10分でやると,「とてもよく分かった」と感想をもらす学生がほとんどだ.弾力性にしても,なぜ傾きじゃダメなのか (単位に左右されるから) を指摘したうえで,パーセント変化分の比率を見ればその問題がおこらないという具合にもっていけば20秒でポイントは伝わる.ミクロ経済学のばあい細かい計算でなくて概念に集中すれば,一瞬で伝えられることが多い.計算にこだわるともちろん時間はかかるので,それには注意しなければならない.

こういった見解の相違は,個人的なものに過ぎないのかもしれないが,経済学者と工学者のちがいによるところも大きいだろう.たとえば『経済セミナー増刊 ゲーム理論プラス』(2007) で横尾真らは,経済学者 (ゲーム理論家だっけ?)と情報科学者のカルチャーのちがいを指摘している.経済理論家はナッシュ均衡の存在に関心をもち,情報科学研究者はナッシュ均衡の効率的な計算方法に関心を持つといったちがいだ.

哲学的な (?) 補足.たぶん経済学者は「概念的に言って,均衡というのは計算できる (べき) ものなのか?」と疑問を持つんじゃないか.均衡とは,ひとびとが状況の改善を求めていろいろ情報を集めいろいろ計算したところで改善が得られないような状態だと考えられる.定義を見ればだいたいそうなってる.計算の結果として求まる状態というより,いくら計算をやっても無駄な状態が均衡であると見るのが自然だろう.(もちろん理論家の観点からいえば均衡が計算できるのは望ましい.しかもゲームのプレーヤーはほかのプレーヤーの思考をシミュレートできるだけでなく,理論家の思考もシミュレートできると考えられる.そうするとプレーヤーが均衡を計算しようしていると理解しても的外れではないだろう.だから「概念的に言えば,だれも計算しようとはしていない」とは言わないことにする.)

計算がアルゴリズム的に簡単にできてしまうのは,(複雑さを無視すれば) 中央集権的な情報処理ができるということであり,分権的市場のモデルとしてはむしろ問題といえるかもしれない.均衡でない状態は「計算をうまくやれば離れたくなる状態」と言えるが,そういう計算・離脱を繰り返していればいずれ均衡に落ち着くというものではない.(クモの巣モデルを考えよ.) かりに落ち着くとしても,そこに至るステップ数が天文学的なものになるかもしれない.いや,そうであるべきと考えたほうがいいかもしれない.そこらへんは山勘が必ず当たるような計算機 (non-deterministic Turing machines) でも使って「うまく勘が当たればわりと簡単に計算できる」という具合にモデル化できるかもしれない.将来の研究者のための自由課題としておこう.

要するに,ある数学的概念があるからといって,それが (現実的に) 計算できると想定すべきではない.計算できると考えると,その概念の解釈に支障をもたらすことがあるのだ.

経済学者と工学者のこのカルチャーのちがいはどこから来るのか.鍵になるのは以下の真実だ.

つづく
【2007/08/23 17:11 】
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