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本気では読めない公共哲学
「公共哲学」といえば,社会選択をやる自分にとって無縁とは言えない.『福祉の公共哲学』といった本を編集した社会選択理論家もいれば,社会選択の主用定理に言及した公共哲学の本もある.たとえば放送大学大学院教材の『公共哲学』では一章分が経済学アプローチに当てられ,アローの定理やギバード・サータスウェイトの定理が言及されている.(社会選択理論が出て来るのは当然といえば当然だが,経済学者が書いただけあって,その章では最後に坂井豊貴・藤中裕二・若山琢磨『メカニズムデザイン』も出現する.)

ということで山脇直司の『公共哲学とは何か』という易しそうな新書をヒマつぶしに読んでみた.結論を言えば,この本でいうところの「公共哲学」は,リバタリアンである自分には感性的に向いてない感じがした.書いてあることのほとんどが冗談か左翼の生き残り戦略に見えてしまう.

「社会など存在しない.存在するのは個人だけ」と考える者にいくら「公共」と繰り返しても理解させることはできないだろう.この本では「公共」という言葉が何度も繰り返し現れるが,自分にはそれが何なのか最後まではっきりしなかった.特に公私二元論に替わる「政府の公/民の公共/私的領域」という根本理念 (詳しい説明は35頁あたり) が分からない.プレーヤーの分類ではなくて活動領域の分類だろうけど.だとしたら現代経済学もべつに公私二元論ではない.「民の公共」の代表的プレーヤーとして挙っている例が NPO とか NGO ってのも奇妙だ.根本理念が分からないからボクにはほとんどなにも分からない本になっている.

経済学やゲーム理論への批判も何箇所かに現れる.ここではふたつだけ取り上げたい.

ひとつめは「パワー・ポリティックスのソフトバージョンともいえるゲーム理論」にかんする次の記述だ (170-171頁): 「このような理論のなかでは,利害レベルでしか『自己-他者-世界』関係が成り立たなくなり,利害を超えたコミュニケーションや価値理念によって構成される公共世界が論じられる余地がなくなってしまいます.」

著者自身はそのような「利害を超えたコミュニケーションや価値理念によって構成される公共世界」というのを分かっているのかもしれないが,ボクという一読者に分からせるように論じてはいない.そこに問題がある.つまり多くの経済理論家にとって,そのような「公共世界」は分からない謎であるはずだ.しかし「利害を超えたコミュニケーションや価値理念によって構成される」ようにも見える「公共世界」をゲーム理論で論じることはできる.その際「利害を超えたコミュニケーションや価値理念」という分からないものを基礎にしてしまっては説明にならない.相手の理解できる概念にもとづいて説明できなければ「説明」の名に値しないわけであり,この場合そういう概念として相手の理解できるような「利得」(「利害」に限定しない) を用いることになる.「利得」を用いなくても分かったつもりになっている著者自身にとっては面倒な手続きかもしれないが,それを他人に分からせるためには,その相手が分かる言葉で説明しなければならないことを見落としてはならない.

ふたつめは「公共的ルール」にかんするつぎの記述だ (180-181頁): 「このような『公共的ルールにはめ込まれた市場経済』というリアリティを,主流派経済学の教科書が無視ないし軽視しているのは,実に奇妙なことです.いや,そうした市場経済のルールを無視した経済学教育は,社会の現実ではなく空想を教授している点で,有害だといわざるをえません.」

ボクは空想自体は有害だとは思わないし,その点には「理想主義的現実主義」を説く著者自身も賛成するはずだ.かりに経済学教育が空想で終わっているならば他の学問を組み合わせればよいからだ.

著者が問題としているのは,彼自身が教科書を読んでも市場の背後にある「公共的ルール」を読み取れなかったという事実だろう.ここで著者は (「民の公共」を唱える者らしくなく)「公共的ルール」の例として (繰り返しゲームで見られるようなプレーヤー間の懲罰などではなくて)「経済刑法」のような政府による制度や法律ばかりを挙げている.だが「厚生経済学の第一定理」など市場にかんする経済学の主要結果にとって大切なのは,とりあえずモノの所有権がはっきりしていることである.所有権については,だれでも「きみのものはぼくのものではない」とか「きみのものとぼくのものを自発的に交換することはできる」という理解くらいは持っているはずで,(所有権にかんするかぎり) それだけで主要結果の理解には十分だろう.

経済学教育で「公共的ルール」の存在が軽視されているのは,経済学の教育では通常,経済学の主要結果を伝えることを重視するためだ.このことは特に奇妙なことではない.学問的成果として得られていない事柄についてあれこれ議論することが有用だと考えるヒマな人は必ずしも多くないからだ.「公共的ルール」の存在以外にも,個人の効用が自分の消費だけで決まること,外部性が存在しないことなど,主要結果の数学的仮定の背後にある前提でありながら,明示的には記述されないことは少なくない.伝えるだけの内容が学問的に蓄積されれば経済学教育でも多くの時間をその内容に割くようになるだろう.「制度の経済学」が発展していることを考えれば,「公共的ルール」について多く語られるようになるのもそれほど先のことではないかもしれない.

以上,経済学やゲーム理論にたいする批判二点に応えてみた.

公共哲学は「学問の構造改革」を目指すというが,どういう具体的成果があるのかよく分からなかった.この本にかぎっていえば著者の意見表明だらけに見える.こういうやり方では学問の専門化以前への復古主義に陥る危険性が高いかもしれない.

最後に本書で得られた豆知識についてふたつ呟こう.

「過渡的正義」という概念 (162頁) は知らなかった.世代間衡平の研究者はあつかっているんだろうか.

石田梅岩の商人道は知らなかった (83頁).市場原理について述べたもので,商人を公的存在者としてあつかっているが (市場で決まる相場を「公」と呼んでる),こちらの方が「民の公共」のいい例じゃないか.

(社会選択などを専門とする HRM からの寄稿)

追記 (9/7/2010; by HRM)

経済理論家とリバタリアンの立場からの補足を「〈本気では読めない公共哲学〉への追記」に寄稿した.
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【2010/09/05 09:08 】
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