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瀬戸内のもったいない島,大島
その島でボクらを出迎えてくれたのは,口蹄疫で隔離・殺傷処分された牛たちやブタたちをイメージした芸術作品ではなく,低層建築の寮や病棟が小奇麗にならんだのどかな風景だった.

高松市庵治の沖合いにある大島は,島のほぼ全体が国立療養所大島青松園となっている,人口約100人のちょっと特殊な島だ.ボクらは瀬戸内国際芸術祭の作品鑑賞も兼ねて訪れてみた.一時間ほどのツアーでは,もともと島にある「納骨堂」や「風の舞」のほか,芸術祭関連の「古いもの/捨てられないもの展」などを巡った.

島民 (入所者) の生活はこんな感じで進行してきた:
  1. 癩病 (いまは「ハンセン病」と呼ぶ; 「反戦病」ではない) にかかる.
  2. 療養施設に強制隔離される.(以下はそのひとつである大島青松園を想定した記述.)
  3. ずっと島内で治療と生活 (いまは島外に出れる).住居や食事や医療については特に問題なさそう.小さな島のわりには宗教施設はとても充実.(島全体が国立療養所であるはずだが,なぜかそのなかにこういうモダンな教会や寺院がある.「ということは,国立大学で宗教行事をやっても問題ないということか?」と素朴な疑問を抱いた.) 公園などレクリエーション関係はまあまあか.島は (どこかの宗教団体の信者さんが掃除したみたいに) 奇麗に掃除されていて,「ケイパビリティ・アプローチ」を説くアマルティア・センの信奉者なら絶賛するような環境かも (?).たぶん遊郭はなかっただろうが,通い婚などでセックスはできた.ただし生まれた子供は中絶された (どこかの国みたいだ).
  4. 島を去りたい人は去る (ある時期以降可能になった).そうでないひとは一生島で暮らす.
  5. 解剖台の上で遺体解剖される (1980年頃まで?; 例によって厚生労働省に記録は残ってない模様).この展示物はちょっと気持ち悪かった.
  6. 島の北側の火葬場で焼かれる (ある時期以降).
  7. 遺灰は納骨堂へ.船着き場からよく見えるドーム型の建物.
  8. 残りの遺灰は火葬場に隣接する「風の舞」へ.円錐形のオブジェが置いてある,眺めのよいこの場所は「せめて死後の魂は風にのって島を離れ,自由に解き放たれますように」との願いが込められた作品らしい.それに呼応するかのように,ちょうど上空を風に乗って鳥が舞っていた
いや,以上はミクロな「生活」というよりはマクロな「一生」と言うべきか.じつは今回はボクが医療施設の建物内に入らなかったせいか,とても暑い日だったせいか,入所者らしいひとは2名程度しか見かけなかった.そのためミクロな「生活」を語るほどの情報を得られなかった事情もある.(ただ,ひとり入所者らしき高齢のおじさんがいて,「チリの炭坑のひとたち??名は大変やなあ,700メートルの地下で30なんとか度の暑い中,何月何日まで出れんらしい」とやたら数字を交えて早口でまくしたてたり,ボランティアのお姉さんに「あんた,彼氏はいるの?」とか聞いてた.笑) 

「生活」といえば,そういえば自動販売機にはビール類が多かった.郵便局があって,その名前がなぜか「千歳郵便局」だった.

いずれにせよ,隔離されて上記の手順で「処分」されて来た島民の歴史を思うと,口蹄疫の殺処分が連想されて仕方ない.厚生労働省が本質的に変わってないことは明らかじゃないだろうか.

それにしても人口約百人の島にあれだけの療養所や宗教施設が揃っているのはもったいない.ほかの病気の患者を受け入れるとか,老人ホームにするとか,もっと有効利用できないのだろうか.帰りの船のなかで,「[島民は] ある意味いい生活してますよ」と声をかけて来たおばさんに言われながら思った.
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【2010/09/13 18:42 】
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「本気では読めない公共哲学」への追記
前回の記事「本気では読めない公共哲学」に,経済理論家とリバタリアンの立場から補足しておく.

追記 1

「公共的ルール」の代替例としてボク自身が挙げたのは (繰り返しゲームにおけるプレーヤー間の懲罰といった) (均衡における) プレーヤーの戦略だった.これは経済理論の考え方としてはあまり標準的ではないことを断っておく (制度をゲームの均衡と考える比較制度分析のようなアプローチには共通する部分があるかもしれない).

より標準的な経済理論では, 「ルール」というのは要するに「ひとびとがどういう行動をしたらどういう結果になるのか」という対応関係であり,それは「メカニズム」あるいは「ゲームフォーム」とよばれる関数として定式化される.(ちなみに「ルール」の修飾語としては,「公共的」という言葉はあまり聞かないが,「集合的」「社会的」という言葉はよく用いられる.) いったんルールが与えられれば,「どういう帰結が予想されるか」はゲーム理論で分析できる.そして「どういうルールを与えるべきか (どういうルールが望ましいか)」は,メカニズムデザインあるいは契約理論で分析できる.ただし望ましいルールをじっさいにひとびとが選ぶかどうかというのは別問題なので,そこを分析したければ,ルールをなんらかの上位レベルのゲームの均衡として考えるアプローチを採用する必要が出て来るだろう.ルールの例として突如前回記事で戦略を持ち出した飛躍の背景には,このパラグラフで述べたような思考があったことを注記しておく.

要するに「〈公共的ルール〉なるものとしては,政府によって与えられた法律のようなものよりも,ひとびとが自発的に選んで行く契約のようなものを重視した方が,〈民の公共〉の考え方に親和的ではないか」と言いたかったのだが,(かならずしもポイントではなかったため) 論理を飛躍させた結果分かりにくくなっていた.

最後の点については,前回記事で触れた石田梅岩の商人道のように,商人を「民の公共」のプレーヤーとして見る考え方が参考になるかもしれない.石田梅岩が「公」とする価格 (相場) 自体が,プレーヤー間のゲームの均衡として決まるはずだからだ.つまり私的主体同士の相互作用の結果として「公」とされる何者かが決まるという考え方だ.


追記 1 への追記 (9/7/10)

どういうメカニズムが望ましいか? 「民の公共」の観点から見て重要な条件としては,「そのメカニズムに参加することが強制されていないか?」というものが考えられる (山脇自身の「民の公共」の理解とは異なるかもしれない).「自発的参加」をメカニズムに要請するやり方はいくつかあるが,ここではソロモン王が直面していたはずのある問題を解決した簡単なメカニズムを紹介する.以下の 1 がそのメカニズムを提唱した論文で,有名なセカンドプライスオークションに,「参加するかしないか」の選択肢を加えただけのメカニズムになっている. 2 はその論文を 10 分程度で紹介するビデオで,3 は日本語による解説である.
  1. The second-price auction solves King Solomon's dilemma. May 2008
  2. King Solomon's Dilemma: A simple solution
  3. ソロモン王のジレンマはセカンドプライス・オークションで解決できるじゃないか!


追記 2

無政府資本主義の考え方にしたがえば,「問題の多い政府の領域をなくして市場の領域だけにしてしまえばいい」ということになるだろう.経済学でいうところの「政府の失敗」は政府が存在するがゆえの失敗だが,「市場の失敗」は (大胆にいえば) 市場が存在しないがゆえの失敗だからだ.したがって無政府資本主義者は,本書の言う「政府の公/民の公共/私的領域」という図式を,「私的領域」だけに縮小することを目指そうとするだろう.そう考えることが無政府主義者にとってもっとも分かりやすいはずだ.

ただ,無政府資本主義者はべつに「民の公共」に反対するわけではない.徹底した個人主義者であることが多いので「民の公共」という概念が分かりにくいはずであり,そういう (スローガンとして採用できない) 分かりにくい概念を外した結果が「私的領域」という図式になるというだけのことだ.

本書『公共哲学とは何か』の著者が無政府資本主義者にも分かる言葉で「民の公共」なるものを説明できたならば,かれらはむしろ積極的に「民の公共/私的領域」という図式を採用するようになるかもしれない.そこらあたりの考察はボクの能力を超えるので,LJP の参加者にでも丸投げしておきたい.

(社会選択などを専門とする HRM からの寄稿)
【2010/09/07 06:50 】
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本気では読めない公共哲学
「公共哲学」といえば,社会選択をやる自分にとって無縁とは言えない.『福祉の公共哲学』といった本を編集した社会選択理論家もいれば,社会選択の主用定理に言及した公共哲学の本もある.たとえば放送大学大学院教材の『公共哲学』では一章分が経済学アプローチに当てられ,アローの定理やギバード・サータスウェイトの定理が言及されている.(社会選択理論が出て来るのは当然といえば当然だが,経済学者が書いただけあって,その章では最後に坂井豊貴・藤中裕二・若山琢磨『メカニズムデザイン』も出現する.)

ということで山脇直司の『公共哲学とは何か』という易しそうな新書をヒマつぶしに読んでみた.結論を言えば,この本でいうところの「公共哲学」は,リバタリアンである自分には感性的に向いてない感じがした.書いてあることのほとんどが冗談か左翼の生き残り戦略に見えてしまう.

「社会など存在しない.存在するのは個人だけ」と考える者にいくら「公共」と繰り返しても理解させることはできないだろう.この本では「公共」という言葉が何度も繰り返し現れるが,自分にはそれが何なのか最後まではっきりしなかった.特に公私二元論に替わる「政府の公/民の公共/私的領域」という根本理念 (詳しい説明は35頁あたり) が分からない.プレーヤーの分類ではなくて活動領域の分類だろうけど.だとしたら現代経済学もべつに公私二元論ではない.「民の公共」の代表的プレーヤーとして挙っている例が NPO とか NGO ってのも奇妙だ.根本理念が分からないからボクにはほとんどなにも分からない本になっている.

経済学やゲーム理論への批判も何箇所かに現れる.ここではふたつだけ取り上げたい.

ひとつめは「パワー・ポリティックスのソフトバージョンともいえるゲーム理論」にかんする次の記述だ (170-171頁): 「このような理論のなかでは,利害レベルでしか『自己-他者-世界』関係が成り立たなくなり,利害を超えたコミュニケーションや価値理念によって構成される公共世界が論じられる余地がなくなってしまいます.」

著者自身はそのような「利害を超えたコミュニケーションや価値理念によって構成される公共世界」というのを分かっているのかもしれないが,ボクという一読者に分からせるように論じてはいない.そこに問題がある.つまり多くの経済理論家にとって,そのような「公共世界」は分からない謎であるはずだ.しかし「利害を超えたコミュニケーションや価値理念によって構成される」ようにも見える「公共世界」をゲーム理論で論じることはできる.その際「利害を超えたコミュニケーションや価値理念」という分からないものを基礎にしてしまっては説明にならない.相手の理解できる概念にもとづいて説明できなければ「説明」の名に値しないわけであり,この場合そういう概念として相手の理解できるような「利得」(「利害」に限定しない) を用いることになる.「利得」を用いなくても分かったつもりになっている著者自身にとっては面倒な手続きかもしれないが,それを他人に分からせるためには,その相手が分かる言葉で説明しなければならないことを見落としてはならない.

ふたつめは「公共的ルール」にかんするつぎの記述だ (180-181頁): 「このような『公共的ルールにはめ込まれた市場経済』というリアリティを,主流派経済学の教科書が無視ないし軽視しているのは,実に奇妙なことです.いや,そうした市場経済のルールを無視した経済学教育は,社会の現実ではなく空想を教授している点で,有害だといわざるをえません.」

ボクは空想自体は有害だとは思わないし,その点には「理想主義的現実主義」を説く著者自身も賛成するはずだ.かりに経済学教育が空想で終わっているならば他の学問を組み合わせればよいからだ.

著者が問題としているのは,彼自身が教科書を読んでも市場の背後にある「公共的ルール」を読み取れなかったという事実だろう.ここで著者は (「民の公共」を唱える者らしくなく)「公共的ルール」の例として (繰り返しゲームで見られるようなプレーヤー間の懲罰などではなくて)「経済刑法」のような政府による制度や法律ばかりを挙げている.だが「厚生経済学の第一定理」など市場にかんする経済学の主要結果にとって大切なのは,とりあえずモノの所有権がはっきりしていることである.所有権については,だれでも「きみのものはぼくのものではない」とか「きみのものとぼくのものを自発的に交換することはできる」という理解くらいは持っているはずで,(所有権にかんするかぎり) それだけで主要結果の理解には十分だろう.

経済学教育で「公共的ルール」の存在が軽視されているのは,経済学の教育では通常,経済学の主要結果を伝えることを重視するためだ.このことは特に奇妙なことではない.学問的成果として得られていない事柄についてあれこれ議論することが有用だと考えるヒマな人は必ずしも多くないからだ.「公共的ルール」の存在以外にも,個人の効用が自分の消費だけで決まること,外部性が存在しないことなど,主要結果の数学的仮定の背後にある前提でありながら,明示的には記述されないことは少なくない.伝えるだけの内容が学問的に蓄積されれば経済学教育でも多くの時間をその内容に割くようになるだろう.「制度の経済学」が発展していることを考えれば,「公共的ルール」について多く語られるようになるのもそれほど先のことではないかもしれない.

以上,経済学やゲーム理論にたいする批判二点に応えてみた.

公共哲学は「学問の構造改革」を目指すというが,どういう具体的成果があるのかよく分からなかった.この本にかぎっていえば著者の意見表明だらけに見える.こういうやり方では学問の専門化以前への復古主義に陥る危険性が高いかもしれない.

最後に本書で得られた豆知識についてふたつ呟こう.

「過渡的正義」という概念 (162頁) は知らなかった.世代間衡平の研究者はあつかっているんだろうか.

石田梅岩の商人道は知らなかった (83頁).市場原理について述べたもので,商人を公的存在者としてあつかっているが (市場で決まる相場を「公」と呼んでる),こちらの方が「民の公共」のいい例じゃないか.

(社会選択などを専門とする HRM からの寄稿)

追記 (9/7/2010; by HRM)

経済理論家とリバタリアンの立場からの補足を「〈本気では読めない公共哲学〉への追記」に寄稿した.
【2010/09/05 09:08 】
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