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選択の苦悩: 行動経済学的仮説

経済学はプロセスを無視して帰結だけに注目するか?」であつかった意思決定問題を再び考える (「元ゲーム」と呼ぶ; 第1段階で「流産」とあるのはもと記事では「妊娠に失敗」と修正済み):

受精卵取り違え問題

今回は特に第2段階である患者の情報集合に注目し,第3段階の「自然」の選択を考慮した上で患者の期待利得を割り当ててみた (「標準モデル」):


患者にとってもっとも望ましいアウトカムは自分たちの子が生まれる場合であり,自分たちの子を中絶するのはそれに劣るのは間違いないだろう.また,患者の行動から,他人の子を中絶する場合の利得は産む場合の利得よりも高かったと考えざるをえない.ボクに分からないのは,自分の子を中絶する場合の利得が (a) 他人の子を中絶する場合よりも上なのか,(b) 他人の子を中絶する場合と産む場合のあいだなのか,(c) 他人の子を産む場合よりも下なのか,である.とりあえず図では自分の子を中絶するのが最悪であると仮定した.

蛇足.利得が直観的に受けいられるものであるべきかどうかは,目的によると思う.予想することが目的であって,かつ利得をしめさずに「ゲーム理論によればこうなる」という言えば納得してもらえる状況なら,利得が直観に合っていなくてもあまり問題はないかもしれない.しかし,説明することが目的であるならば,利得は直観に反しない納得できるものであるほうがよさそうだ.

患者の主観 (見積もりあるいは「信念」) によれば,妊娠した子が自分の子である確率 が q で,他人の子である確率が 1-q であるとする (ただし q は0以上1以下).患者の情報集合における利得を計算すると,

  • 「中絶」を選んだ場合の利得: -3q-1(1-q)
  • 「生かす」を選んだ場合の利得: 1q-2(1-q)

となる.自分たちの子である確率 q が (1/5より) 高ければ「生かす」が最適で,他人の子である確率が (4/5より) 高ければ「中絶」が最適となる.(q=1/5 という値のときに2つの選択が無差別になるのは,自分たちの子であるときの2選択の利得差 4 と他人の子であるときの2選択の利得差 1 から来ており,q = 1/(4+1) となっている.) ここで注目すべきは,確率 q がどうであれ,図の4つのアウトカム中最悪の場合の利得 (-3) よりも利得が低くなることはないことだ.

これに対して,「妊娠したのが自分の子と分かって中絶する方が,自分の子か他人の子か分からずに中絶すべきかどうか迷う状況よりはマシだ」という考え方があるかもしれない.「妊娠したのが自分の子かどうか不確実性を残したままで,中絶するかどうか選択しなければならない苦悩」というジレンマが表されていないという批判だ.

その批判への応え方はいろいろあるだろうが,ゲーム理論の標準から離れて行動経済学的領域に入って行く必要がありそうだ.次の図にしめす利得は,行動経済学の成果などはまったく考慮せずにボクが勝手に想定した仮説だ (「非標準モデル」).

自分としてはあまり踏み込みたくない領域ではあるが,以前このブログ記事「非循環性なしの社会選択理論が出現!」で紹介した隈部正博と経済理論家・三原麗珠との論文さえも行動経済学の成果に言及するような戦慄すべき時代だ.ここでは「トンデモ」あつかいされるのは覚悟で大胆な仮説を提示してみた.社会科学の伝統を無視して,勝手なやり方で限定合理性を想定するような工学者並なみに堕ちていると言われても仕方ない.「学問への政府介入の危険性も認識できない彼らの理系的絶望的能天気さに屈するのか?」と叩かれもするだろう.「学問の自由を守る気概もない理系バカとお前は変わらないではないか?」と問いつめられもしよう.すべて正当な批判だ.それでもボクは,あらゆる屈辱を乗り越え,恥を忍んでここに提示する.


非標準モデルが標準モデルとちがうのは,d(q) だけ利得が引かれていることだ.より具体的には,

  • d(q) = 0 if q = 0 or 1
  • d(q) = d if q is not 0 or 1

としておく.これにより,妊娠した子が確実に自分の子である場合と確実に他人の子である場合を除いて,d > 0 だけ利得が下がっている.不確実性が少しでも入ればある定数分だけ利得が下がることによりジレンマを表したものであり,利得関数は q = 0 あるいは 1 のところで不連続となっている.不連続な利得というのは伝統的とは言えないだろうが,ありそうな感じもする.患者の利得がこのような不連続性を持つかどうかは,(情報集合自体を選択できるようにした上で,q を 0 あるいは 1 に近づけて行くような) 実験によって確かめられないこともないだろう.

このモデルが標準からおおきく逸脱しているのは,利得が確率 q という均衡において内生的に決まる変数に依存することだ.しかしそれは一般論であり,いまのばあいは最初の図を見れば分かるように,q は与えられた元ゲームからベイズの法則により求められる.第1段階で「自然」が 11 を選ぶ確率を p1と,00 を選ぶ確率を p0 とすると,条件付き確率 q = p1/(p1+p0) と求められる.p =(p1, p0) におうじて異なる元ゲームがあると考えれば,利得が q に依存するのはさまざまなゲームを考えているためということになり,標準に取り込むことはできる.

この非標準モデルにおける患者の行動は標準モデルと変わらない.q を固定してしまえば,利得は標準モデルと同じ (q=0 or 1 のとき) か,定数を引いただけ (q がそれら以外のとき) であるためだ.苦悩は患者の選択行動自体は変えないのだ! 別の言い方をすれば,標準モデルでも患者の行動は十分説明できることになる.

しかし苦悩は患者の選択時の利得を (不確実性がなかった場合の最悪よりもさらに) 下げる.これは標準モデルでは説明できない.妊娠した子が確実に自分の子か確実に他人の子か分かっている場合 (q = 0 or 1) は仮想的な状況に過ぎないが,ひとはそういう状況を想像することはできるし,現実に直面した不確実性の残る状況 (q が 0 と 1 以外) とそういう状況を比較することもできる.患者の苦痛はそういう種類の比較から生じたものだったと言えるかもしれない.

そして患者がこの種の比較をしているということは,「自然」が最初に選択するときの確率 p=(p1, p0) が異なる (その結果 q も異なる) いろんな「元ゲーム」に患者が参加しているためとも考えられる.たとえば患者が最初に参加するかどうかを選び,参加するならば「自然」がまず p を選び,その選ばれた p に依存する「元ゲーム」が始まるというふうに考えれば,部分ゲームとしてさまざまな「元ゲーム」が現れることになる.

(HRM からの寄稿)

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【2009/02/27 11:43 】
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