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近所で起きた受精卵取り違え: 被害感情を想像してみる

近所の病院で受精卵の取り違えがあったそうだ.不妊治療で誤って別の女性の受精卵を移植された疑いのあった女性夫婦が,人工中絶を受けることになったという.いったんは妊娠していたのだそうだ.事故は香川県立中央病院で起きた.「さか枝」といううどん屋の裏にある病院と言えば,地元の人には通じるだろう.あんな汚い病院で体外受精してもらう客がいたというのにはちょっと驚いた. (外観はそれほど汚くない.)

病院側はもちろん謝罪したが,女性側は2000万円の損害賠償を求める訴えを高松地裁に起こした.担当医は「妊娠したという喜びの際、中絶という身体的にも精神的にも想像を絶するような負担をかけ、申し訳ない」と語っている.被害の評価が食い違ったのだろう.この事件は全国ニュースになってるようで,けっこう感情的な報道が多い.記者たちにとっては当事者夫婦の苦痛を想像するのは容易なのかもしれない.

だが,アスペルガー傾向の強いせいかどうかは知らないが,ボクにとっては想像するのが困難な苦痛だ. 評判も良かったに違いないこのベテラン産婦人科医師の想像を絶するという被害感情を,(平凡な男性である?) ボクが実感をもって想像するというのは無理な話だ.だって,もともと子供が生まれにくい状態 (nil) だったものが,いったん妊娠という状態 (1) を経たものの,結局はもとの状態 (nil) に戻っただけでしょう (リマーク参照).

リマーク.話がややこしくならないようにするため,治療によって身体的なダメージはなかった (たとえば治療前後で妊娠しやすさは変わらなかった) とする.じっさいは,中絶の刺激などにより,妊娠しやすくなる効果も逆の効果もあるだろう.

治療前と治療後だけを見れば現状が変わらなかっただけなのだから,治療費をタダにしてさえもらえば,失われた時間と多少イヤな感情は残るとしても「あきらめるしかないな」と思わないだろうか.思えないひとも多いのかもしれないが,少なくとも「そう思いなさい.相手が間違いを正したのならば,済んだことは赦して忘れなさい」としつけを受けて来たのではないか.そういうマインドセットでも持たないと,とても現代社会では生きて行けないのでは.

例えるならば,洗濯機が壊れて修理に出したら他人の洗濯機が戻って来て,それと知らずに使っていたような状況だ.そこに「すいません.とりちがえてました」と自分の洗濯機が戻って来くれば,「このバカ野郎! いままで他人の洗濯機使わせやがって! 気持ち悪いじゃないか」という感情は残るかもしれないが,「まあ,最終的には自分のが戻って来たのだから」とあきらめるような感じだ.(ただしこの例は,もとの状況とはちょっと違う以下のような状況に対応している: 受精卵を取り違えられた二人の女性がいて,最終的に正しい母親に戻されて妊娠するという状況.)

現状維持に過ぎないのにやたら感情を高ぶらせている逆方向の例としては,「事故にあって助かって喜んでいるひとたち」というのもある.これも新聞記者によく理解されている感情だ.ほかのひとは被害にあっているというのに,そしてその本人も予定が狂ったりしてコストを被っているはずなのに,彼らの喜びは特に非難もされなければ,奇妙に思われもしない.(「貴重な体験ができてうれしい」というのもあるだろうけど,そんなに決定的な要因とも思えない.) ただし,こちらは「喜ぶな」というしつけがなされて来たという話は聞かない.

ということでボクにとってこの夫婦の「苦痛」は感情的にはよく理解できない.しかし各紙の報道が普遍的と言えるくらいに被害者の苦痛を当然視しているからには,同じ人類として理性的には理解できるかもしれない.ということで当事者の感情面を重視したこの記事などを読んだりして考えてみた.

  1. まず,既に述べた nil-->nil (現状維持) というモデルがある.途中のプロセスは無視して,担当医にかかる前と後を比較する見方だ.途中の政治プロセスなどを考慮していては混乱するので,政策評価などではふつうのやり方かもしれない.これによれば,状況は悪化しなかったことになる.単純で分かりやすいモデルだが,残念ながらこのモデルでは新聞報道を理解できない.
  2. つぎに,nil-->1-->nil (現状から妊娠,そして現状へ) というモデルがある.このモデルを前提にしても,評価の可能性はいくつかあり,たとえば最初と最後の状態 nil だけに注目すればモデル A と同じになる.あるいは「ヒトは最後に経験した変化にともなう感情だけを記憶する」とでも仮定を置けば,最後の「妊娠から現状」という,医師のやった仕事のネガティブな部分だけが評価されることになる.公平とは言えないが,とりあえず新聞の一斉非難はこれで説明できる.

いずれのモデルにせよ,選択肢が nil と 1 だけでは状況を詳しく記述できていない.評価が「選好」にもとづいて行われるのであれば,その「選好」を記述する必要もある.

まず選択肢として忘れてならない情報は,「だれの子」かだろう.同じ妊娠すると言っても,その子が自分の子かどうか,自分の愛する男性の子かどうかで,その意味がまったくちがってくるというのは十分理解できる感情だ.妊娠状態を「1」とだけ表現してすべて同じにあつかうのはあまりに乱暴というわけだ.ここでは次の5つの選択肢を考える (じっさいに選択する対象ではないので「アウトカム」と言った方がいいかもしれないが,そこはポイントではない):

  • 11 (自分と自分の愛する男性の子を妊娠した状態)
  • nil (現状; 妊娠していない,妊娠しにくい状態)
  • 10 (自分と自分の愛さない男性の子を妊娠した状態)
  • 01 (自分以外の女性と自分の愛する男性の子を妊娠した状態)
  • 00 (自分以外の女性と自分の愛さない男性の子を妊娠した状態)

夫婦あるいは女性の選好としてはおそらくここにあげた順番か,10 と 01 が入れ替わるかではないか.あるいは 01 (自分の愛する男性とほかの女の子供を身籠ること) を最悪に思う女性もいるだろう.

いずれにせよ,2番目の nil と3番目の選択肢のあいだには大きなギャップがあると思われる.自分の身体というプライバシーが侵されるということからだけでも,じゅうぶん想像できる.レイプされたようなものだろう.(「レイプされてできた子供でも産みたい」という感情を持つ女性もいて,そういうひとはおそらく 10 を nil より選好するだろうが,考えない.今回の被害女性はそうではなさそうだから.) そんなふうに極端な言い方をすると,「みずから承諾したのだからプライバシーは侵害されていない」と反論されるかもしれない.(たとえば「バブルの頃ハワイの砂浜で新婚さんがセックスするのが流行ったじゃないか.あのとき多くの男たちががハワイに出かけ,暗闇の砂浜で相手を間違った振りをして他人の新妻とセックスして,『ハワイで作った赤ちゃん生まれそうよ』とか言われて,面倒なことにならないうちにさっさと逃げたとか……よくあったよなあ」とか.) しかし意図的でないにせよ相手は正しく情報を提供していないので,「承諾した」と言い切るのはむずかしいだろう.

ボクの科目で不可を喰らった男子学生がボクのところにやって来て,「すごくいいものを教えるので,可をください」と,自分の恋人が管理する超エロいマル秘写真サイトのアクセス方法を教えるような状況だ.ボクが男子学生から教わったユーザー名を語ってその恋人に自分のエッチな写真を見せてもらったとしたら,正しい意味で承諾を受けたことにはならないだろう.正しい承諾であるためには,ちゃんと自分の身を明かした上で正しい情報を提供して「あなたの彼氏は酷いやつだ.そんな彼とはさっさと別れなさい.ということで,ボクにも見せて」とやるべきである.

で,そのギャップが大きいと,今回のように nil-->z--->nil (ただし z は 00; 正確には 00 と 11 の「くじ」で 00 に高い確率を持つもの) というプロセスで,x のマイナス効果が大きくて効用の評価上とても無視できなくなるのだろう.これで少し分かって来た.

しかしこれでも説明としては不十分だ.いくら 00 (他人夫婦の子を身籠ること) にほとんど等しい z という状態の効用がひじょうに低いといっても,想像を絶するほどではないだろう.実際,00 というのは代理出産のことであり,外国では多くの人が金銭と引き換えに受け入れている.

つまり選択肢として上に挙げた5つでは記述できていないものがあるのだ.それは nil-->1-->nil というプロセス全体,特に先に述べた 1-->nil という「変化」にかかわる部分だ.その部分が z-->nil であれば効用が増加するのだから良さそうなものだが (じっさい問題の夫婦は人工中絶を選択したので効用はこの変化でプラスだったはずだ),この部分はじつは生命を奪いもしている.そして生命が奪われると言っても自然に奪われるのと,人工中絶で奪われるのはちがうだろうから,区別する必要がある.

となると nil-->x-->y という全プロセス中で,すべてに共通である最初の nil は無視できるにしても,x, y, そして「x-->y の変化のあり方」にかかわる情報は欠かせない.これら3つの要素からなる「一般化選択肢」を

(x, y, x-->y)

と書き,x, y は上記の5つの (基本レベルの) 選択肢のいずれか,そして変化のあり方 x-->y は id (無変化)または nat (自然流産) または abort (人工妊娠中絶) で表すことにする.すると,妊娠しなかったものはそのままなので x= nil ならばかならず y=nil となる.また,x が nil 以外のときは以下のようになる.

  • 妊娠状態が続けば,y = x で,変化は id,
  • 自然流産すれば y= nil で,変化は nat,
  • 人工妊娠中絶すれば y= nil で,変化は abort.

さて,妊娠しなかったときの一般化選択肢は (nil, nil, id),今回の事故で仮に自然流産したときの一般化選択肢は (z, nil, nat),そして今回の事故にあたる一般化選択肢は (z, nil, abort) ということになり,おそらく効用はこの順番で下がって行くだろう.z のひじょうに低い効用を考えると,最初の2つのギャップは大きいし,人工妊娠中絶の精神的負担を考えるとあとの2つのギャップも大きいかもしれない.いずれにせよ今回の (z, nil, abort) は現状維持に見える (nil, nil, id) よりもだいぶ悪そうだ.

ちなみに今回の (z, nil, abort) が中絶しなかったときの (z, z, id) よりも望ましいことは,当該夫婦のじっさいの選択から言えるはずだ.しかしなにか腑に落ちないものがある.「z という「くじ」が不確実性を残したままで中絶するかどうか選択しなければならない苦痛」というのが表現できていないためかもしれない.

「こんな面倒な議論をしないとお前は分からないのか?」とか言われるかもしれない.まあ,そのとおりだ.そして,その理解もあくまでも理性レベルの話だ.やはり感情的には「でももとに戻ったし,治療費くらいは取り返したんでしょう?」となってしまう.これって普通じゃないのかなあ? 「自分もそうだよ」と思う読者は少なくないと思うんだが,いたらコメントしてくれないかなあ.

あと,被害者が不特定ではない状況で記者に向かって頭を下げるのは自分には分からない.「こうこうこういうことがあって被害者には謝罪した」と説明すれば済みそうなもんだが.新聞記者が問題を起こしても,当の新聞社はその状況を客観的に報道するだけのことが少なくないような気がするんだけど,あれでいいのでは.「記者会見を開くからには謝罪しないと格好がつかない」という思いがあるのだろうけど,それにしてもヘンな慣習じゃないか?

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追記 (2/22/2009)

せっかく得られた結論を否定するようなまとめ方になってしまったので,改めてまとめておく:

  • 「いずれにせよ今回の (z, nil, abort) は現状維持に見える (nil, nil, id) よりもだいぶ悪そうだ」と書いたように,結論は (ボク自身の直観に反して) 「かなりの精神的ダメージがあったのだろう」ということ.
  • 示談なり提訴なりによってそのダメージ (の一部) を取り戻したら,あとは忘れるのが合理的.サンクコストとしてあきらめるにあたっては,それ以上なにかできるかどうかが問題であって,もとの状態 (もとの効用レベル) を取り返せたかどうかは関係ない.

患者と病院側で被害にかんする評価が異なったのだろうと書いたが,じっさいは病院側が慎重な対応をしようとして評価を出すのが遅れたということらしい.県立ならじゅうぶんありそうな理由だ.もし病院側の言う通りならば,損害額の評価の違いはそれほど決定的な問題ではないかもしれない.じっさい患者側の弁護士は最初今回の請求額 2000 万円の半額程度しか求めていなかったと明かしているし.保険が利くのかどうかとか,日本全国で年間どのくらいのミスを許容するかのターゲット設定によるけど,「ミス1回につき一千万円の追加コスト」は抑止力としてどうなんだろう.

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【2009/02/21 20:53 】
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