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選択の苦悩: 行動経済学的仮説

経済学はプロセスを無視して帰結だけに注目するか?」であつかった意思決定問題を再び考える (「元ゲーム」と呼ぶ; 第1段階で「流産」とあるのはもと記事では「妊娠に失敗」と修正済み):

受精卵取り違え問題

今回は特に第2段階である患者の情報集合に注目し,第3段階の「自然」の選択を考慮した上で患者の期待利得を割り当ててみた (「標準モデル」):


患者にとってもっとも望ましいアウトカムは自分たちの子が生まれる場合であり,自分たちの子を中絶するのはそれに劣るのは間違いないだろう.また,患者の行動から,他人の子を中絶する場合の利得は産む場合の利得よりも高かったと考えざるをえない.ボクに分からないのは,自分の子を中絶する場合の利得が (a) 他人の子を中絶する場合よりも上なのか,(b) 他人の子を中絶する場合と産む場合のあいだなのか,(c) 他人の子を産む場合よりも下なのか,である.とりあえず図では自分の子を中絶するのが最悪であると仮定した.

蛇足.利得が直観的に受けいられるものであるべきかどうかは,目的によると思う.予想することが目的であって,かつ利得をしめさずに「ゲーム理論によればこうなる」という言えば納得してもらえる状況なら,利得が直観に合っていなくてもあまり問題はないかもしれない.しかし,説明することが目的であるならば,利得は直観に反しない納得できるものであるほうがよさそうだ.

患者の主観 (見積もりあるいは「信念」) によれば,妊娠した子が自分の子である確率 が q で,他人の子である確率が 1-q であるとする (ただし q は0以上1以下).患者の情報集合における利得を計算すると,

  • 「中絶」を選んだ場合の利得: -3q-1(1-q)
  • 「生かす」を選んだ場合の利得: 1q-2(1-q)

となる.自分たちの子である確率 q が (1/5より) 高ければ「生かす」が最適で,他人の子である確率が (4/5より) 高ければ「中絶」が最適となる.(q=1/5 という値のときに2つの選択が無差別になるのは,自分たちの子であるときの2選択の利得差 4 と他人の子であるときの2選択の利得差 1 から来ており,q = 1/(4+1) となっている.) ここで注目すべきは,確率 q がどうであれ,図の4つのアウトカム中最悪の場合の利得 (-3) よりも利得が低くなることはないことだ.

これに対して,「妊娠したのが自分の子と分かって中絶する方が,自分の子か他人の子か分からずに中絶すべきかどうか迷う状況よりはマシだ」という考え方があるかもしれない.「妊娠したのが自分の子かどうか不確実性を残したままで,中絶するかどうか選択しなければならない苦悩」というジレンマが表されていないという批判だ.

その批判への応え方はいろいろあるだろうが,ゲーム理論の標準から離れて行動経済学的領域に入って行く必要がありそうだ.次の図にしめす利得は,行動経済学の成果などはまったく考慮せずにボクが勝手に想定した仮説だ (「非標準モデル」).

自分としてはあまり踏み込みたくない領域ではあるが,以前このブログ記事「非循環性なしの社会選択理論が出現!」で紹介した隈部正博と経済理論家・三原麗珠との論文さえも行動経済学の成果に言及するような戦慄すべき時代だ.ここでは「トンデモ」あつかいされるのは覚悟で大胆な仮説を提示してみた.社会科学の伝統を無視して,勝手なやり方で限定合理性を想定するような工学者並なみに堕ちていると言われても仕方ない.「学問への政府介入の危険性も認識できない彼らの理系的絶望的能天気さに屈するのか?」と叩かれもするだろう.「学問の自由を守る気概もない理系バカとお前は変わらないではないか?」と問いつめられもしよう.すべて正当な批判だ.それでもボクは,あらゆる屈辱を乗り越え,恥を忍んでここに提示する.


非標準モデルが標準モデルとちがうのは,d(q) だけ利得が引かれていることだ.より具体的には,

  • d(q) = 0 if q = 0 or 1
  • d(q) = d if q is not 0 or 1

としておく.これにより,妊娠した子が確実に自分の子である場合と確実に他人の子である場合を除いて,d > 0 だけ利得が下がっている.不確実性が少しでも入ればある定数分だけ利得が下がることによりジレンマを表したものであり,利得関数は q = 0 あるいは 1 のところで不連続となっている.不連続な利得というのは伝統的とは言えないだろうが,ありそうな感じもする.患者の利得がこのような不連続性を持つかどうかは,(情報集合自体を選択できるようにした上で,q を 0 あるいは 1 に近づけて行くような) 実験によって確かめられないこともないだろう.

このモデルが標準からおおきく逸脱しているのは,利得が確率 q という均衡において内生的に決まる変数に依存することだ.しかしそれは一般論であり,いまのばあいは最初の図を見れば分かるように,q は与えられた元ゲームからベイズの法則により求められる.第1段階で「自然」が 11 を選ぶ確率を p1と,00 を選ぶ確率を p0 とすると,条件付き確率 q = p1/(p1+p0) と求められる.p =(p1, p0) におうじて異なる元ゲームがあると考えれば,利得が q に依存するのはさまざまなゲームを考えているためということになり,標準に取り込むことはできる.

この非標準モデルにおける患者の行動は標準モデルと変わらない.q を固定してしまえば,利得は標準モデルと同じ (q=0 or 1 のとき) か,定数を引いただけ (q がそれら以外のとき) であるためだ.苦悩は患者の選択行動自体は変えないのだ! 別の言い方をすれば,標準モデルでも患者の行動は十分説明できることになる.

しかし苦悩は患者の選択時の利得を (不確実性がなかった場合の最悪よりもさらに) 下げる.これは標準モデルでは説明できない.妊娠した子が確実に自分の子か確実に他人の子か分かっている場合 (q = 0 or 1) は仮想的な状況に過ぎないが,ひとはそういう状況を想像することはできるし,現実に直面した不確実性の残る状況 (q が 0 と 1 以外) とそういう状況を比較することもできる.患者の苦痛はそういう種類の比較から生じたものだったと言えるかもしれない.

そして患者がこの種の比較をしているということは,「自然」が最初に選択するときの確率 p=(p1, p0) が異なる (その結果 q も異なる) いろんな「元ゲーム」に患者が参加しているためとも考えられる.たとえば患者が最初に参加するかどうかを選び,参加するならば「自然」がまず p を選び,その選ばれた p に依存する「元ゲーム」が始まるというふうに考えれば,部分ゲームとしてさまざまな「元ゲーム」が現れることになる.

(HRM からの寄稿)

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【2009/02/27 11:43 】
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経済学はプロセスを無視して帰結だけに注目するか?

伏線は敷いたので,今回は経済学の話題を提供しよう.

まずは「近所で起きた受精卵取り違え: 被害感情を想像してみる」でとりあげた意思決定問題を,展開形ゲーム (正確にはゲームフォーム) で表現してみる (OpenOffice.org の図形描画を利用した):

受精卵取り違え問題

第1段階で「自然」の取りうる選択肢は3つある: 11 (患者夫婦の子を妊娠させる); 00 (他人の子を妊娠させる); nat (妊娠に失敗する; 図では「流産」とあるが,この段階での用語としてはふさわしくなかった).(医者はあくまでも患者自身の子を妊娠させること 11 を目指して行動するので,能動的に選択は行わない.よってこの段階でプレーヤとなるのは不確実性を表す「自然」であり,「自然」は妊娠失敗を選ぶ以外にも医者にミスを起こさせることもできる.この段階で「自然」が選べる選択肢には片方の親だけが他人になる 01 と 10 というのもあるが,ここでは無視する.) 医者がミスして 00 となる確率はほとんどゼロだが,妊娠に失敗する (nat) の確率が相当大きいので,夫婦の希望通りに妊娠する (11) のはかなりラッキーな場合だ.妊娠に失敗すれば子供のいない状態 nil が実現し,これは (とりあえず) 治療前と同じだ.

第2段階では,妊娠を知った患者夫婦がその子を中絶するか生かすかを選ぶ.(この段階では妊娠したのが自分の子かどうか区別できないため,図で示すように「患者」を表す2つの丸を点線で結んで「情報集合」とした.) 中絶すれば子供のいない状態 nil になり,生かせば第3段階の自然の選択により流産するか生きるかが決まる.流産したら子供のいない状態 nil になり,生きれば自分たちの子供ができる (11) か,他人の子供ができる (00).

最終的な状態は a1 から a7 の 7つがあり,これらは「帰結」を表すため「アウトカム」とも呼ばれる.アウトカムをどう記述するか,あるいは認識するかが問題であり,図では nil, 11, 00 の 3 種類だけを区別して括弧内に書き込んだ.それぞれ「子供のいない状態」「自分たちの子ができた状態」「他人の子ができた状態」という帰結を表す.

ここで気づくべきことがある.nil とラベル付けされたアウトカムが 5 つあるが,それらは同じ結果とみなす必要はないということだ.たとえば

  • 最初から流産した場合 (a7) と,
  • いったん妊娠して中絶したが,その子が
    • 自分たちの子供だった場合 (a1) と
    • 他人の子供だった場合 (a4)

とでは,ちがうあつかいをしていいはずだ.

じっさい,上のような展開ゲームまで描いておいて,異なるプロセスで得られた 5 つのアウトカムを区別しないのは,バカげた話だ.それらを区別しないのは,ゲームを描く人の問題であって,展開形ゲーム自体の記述力不足の問題ではない.それぞれのアウトカムにたいして,根っこにある「自然」からそのアウトカムに至るパス (経路) は一意に決まる.(グラフ理論の定理を探すまでもないだろう.そのアウトカムの親,その親の親,……が一意に決まるので,それらの先祖を順次辿って根っこまで戻ればいい.間違えていたら指摘してくれ.) たとえば a2 に至るパスは,一連の選択を列挙することにより,

11-生かす-nat

と書ける.あるいはプレーヤーや端点までふくめて「自然-11-患者-生かす-自然-nat-a2」のようにより詳しく書ける.

つまり,アウトカムはこれら異なるパスの数 (上図では 7 個) だけ区別できるのだ.(上の図でアウトカムを nil と 11 と 00 だけに区別したのは,本来区別できるいくつかのアウトカムを同一視したためである.) そしてパスというのは,最終的な帰結に至るプロセスを表している.よって展開形ゲームを考えれば,あるところまでは特段苦労もなくプロセスを表現できるのだ.多くの文脈では批判として現れる「経済学はプロセスを無視して帰結だけに注目する」という主張は,少なくとも (展開形) ゲーム理論にたいしては当てはまらない.

リマーク.前回記事「近所で起きた受精卵取り違え: 被害感情を想像してみる」を振り返ってみよう.そこでは nil-->x-->y という全プロセス中で,すべてに共通である最初の nil は無視して,x, y, そして「x-->y の変化のあり方」の3つの要素からなる「一般化選択肢」を

(x, y, x-->y)

と表現した.この「一般化選択肢」とは,今の記事で言うところの (パスの情報を暗にふくむことで適切に区別された) アウトカムに過ぎない.対応は次のようになる:

  • x は第1段階での「自然」の選択肢である 11, 00, nat のいずれか,パスの前半部分.
  • y は a1 から a7 のアウトカムの括弧内に記述された 11, 00, nil のいずれか.アウトカムの不十分な記述.
  • x-->y は「abort」あるいは「生かす-nat」あるいは「生かす-生きる」.パスの後半部分.

さて,ゲーム理論を取り込んだ現代経済学にたいして,「経済学はプロセスを無視する」という批判は当てはまらないことを確認した.しかし,経済学が伝統的にプロセスを無視して帰結だけに注目しようとしてきたことは間違いではないだろう.過剰なほどにプロセスを記述しようとする他の社会科学から自らを差別するため,できるだけシンプルに社会現象を記述しようとした結果かもしれない.それゆえ経済学は「帰結主義的」であるとされて来たのであり,その傾向は特に (だれがなにをどれだけ消費するかという「配分」だけでアウトカムを表す) 一般均衡理論に強く現れている.

そういう経済学の伝統的な帰結主義的傾向をもっとも真剣に批判したのは社会選択理論家である.(それがゲーム理論家でなかったのは,社会選択理論家がもともと規範的問題 [価値判断にかかわること] を重視しているという事情によるだろうが,ゲーム理論家にとってはプロセスはもともと記述できるものだからかもしれない.) たとえば鈴村興太郎は,選択の機会集合や選択手続きなどにも内在的な価値を認めるアプローチを押し進めることで,伝統的な帰結主義を乗り越えようとしている.

ここでは鈴村の挙げる以下の端的な例を考えてみよう (Kotaro Suzumura, Consequences, opportunities, and procedures, Social Choice and Welfare 16: 17-40, 1999, の Example 1 を若干修正; べつに鈴村教授の代表作というわけではないが,ちょうどいい例が載っていたので採り上げた).二人姉妹がケーキを分ける問題を考える.量だけが問題だとすれば,配分は (x1, x2) のように書け,x1 は姉の取り分,x2 は妹の取り分である (ただし x1+x2=1).いまふたつの分け方 F, G を考える.Fは「公正なる父親の独裁的判断」であり,G は「姉妹自身による分割ゲーム」である.いずれの分け方でも結果として等分である (1/2, 1/2) という配分がアウトカムとして得られた.

もし伝統的経済学のように (?) アウトカムである配分だけに注目すれば,これらの2つの分け方は同等と判断することになる.「しかしそれで適切か? 姉妹たち自身が決める権利があるかどうかの違いは無視できないだろう」というわけで,Suzumura は「拡張された選好」というものを定義したフレームワークを提示する.手続き H で配分 x が実現したとすれば,そのペア (H, x) に利得を与えるような話だ.

では,ゲーム理論家ならどう考えるだろうか? べつに配分だけに注目するわけではないだろう.おそらく次の図のような略されたゲームフォームを考えるのではないか.


第1段階で選択する「プレーヤー」とは,姉あるいは妹あるいは姉妹と考える.特にそれが姉妹のばあいは,ある種のゲームを略して「プレーヤー」とある楕円で示していると考えられる.それが姉あるいは妹の場合は,この段階では単純に2つの選択 (F に参加するか G に参加するか) を与えられていると考えてよい.そして図中で (1/2, 1/2) とある配分の代わりに彼女の利得を考えれば,それらふたつの配分は利得において区別できる.同じ (x1, x2) という配分が得られたとしても,「F でそれが得られた場合よりも G でそれが得られた場合の方が彼女の利得は高い」といった具合に.このアプローチは Suzumura (1999) の提案するところと大差ないと言えないだろうか?

以上から分かるように,現代経済学,とりわけゲーム理論は帰結主義を乗り越えることができる.ただし,できることと実際にやることとはちがう.経済学の伝統的な帰結主義的傾向を実際に正面から見直して来たのは,ゲーム理論家というよりは,鈴村らをはじめとする社会選択理論家だったと言えるだろう.

(HRM からの寄稿)

追記 (2/27/2009). 「第1段階で「自然」の取りうる選択肢は3つある: 11 (患者夫婦の子を妊娠させる); 00 (他人の子を妊娠させる); nat (流産させる)」とあったのを「第1段階で「自然」の取りうる選択肢は3つある: 11 (患者夫婦の子を妊娠させる); 00 (他人の子を妊娠させる); nat (妊娠に失敗する)」と修正.面倒なので図はそのままにしてある.

【2009/02/23 07:27 】
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近所で起きた受精卵取り違え: 被害感情を想像してみる

近所の病院で受精卵の取り違えがあったそうだ.不妊治療で誤って別の女性の受精卵を移植された疑いのあった女性夫婦が,人工中絶を受けることになったという.いったんは妊娠していたのだそうだ.事故は香川県立中央病院で起きた.「さか枝」といううどん屋の裏にある病院と言えば,地元の人には通じるだろう.あんな汚い病院で体外受精してもらう客がいたというのにはちょっと驚いた. (外観はそれほど汚くない.)

病院側はもちろん謝罪したが,女性側は2000万円の損害賠償を求める訴えを高松地裁に起こした.担当医は「妊娠したという喜びの際、中絶という身体的にも精神的にも想像を絶するような負担をかけ、申し訳ない」と語っている.被害の評価が食い違ったのだろう.この事件は全国ニュースになってるようで,けっこう感情的な報道が多い.記者たちにとっては当事者夫婦の苦痛を想像するのは容易なのかもしれない.

だが,アスペルガー傾向の強いせいかどうかは知らないが,ボクにとっては想像するのが困難な苦痛だ. 評判も良かったに違いないこのベテラン産婦人科医師の想像を絶するという被害感情を,(平凡な男性である?) ボクが実感をもって想像するというのは無理な話だ.だって,もともと子供が生まれにくい状態 (nil) だったものが,いったん妊娠という状態 (1) を経たものの,結局はもとの状態 (nil) に戻っただけでしょう (リマーク参照).

リマーク.話がややこしくならないようにするため,治療によって身体的なダメージはなかった (たとえば治療前後で妊娠しやすさは変わらなかった) とする.じっさいは,中絶の刺激などにより,妊娠しやすくなる効果も逆の効果もあるだろう.

治療前と治療後だけを見れば現状が変わらなかっただけなのだから,治療費をタダにしてさえもらえば,失われた時間と多少イヤな感情は残るとしても「あきらめるしかないな」と思わないだろうか.思えないひとも多いのかもしれないが,少なくとも「そう思いなさい.相手が間違いを正したのならば,済んだことは赦して忘れなさい」としつけを受けて来たのではないか.そういうマインドセットでも持たないと,とても現代社会では生きて行けないのでは.

例えるならば,洗濯機が壊れて修理に出したら他人の洗濯機が戻って来て,それと知らずに使っていたような状況だ.そこに「すいません.とりちがえてました」と自分の洗濯機が戻って来くれば,「このバカ野郎! いままで他人の洗濯機使わせやがって! 気持ち悪いじゃないか」という感情は残るかもしれないが,「まあ,最終的には自分のが戻って来たのだから」とあきらめるような感じだ.(ただしこの例は,もとの状況とはちょっと違う以下のような状況に対応している: 受精卵を取り違えられた二人の女性がいて,最終的に正しい母親に戻されて妊娠するという状況.)

現状維持に過ぎないのにやたら感情を高ぶらせている逆方向の例としては,「事故にあって助かって喜んでいるひとたち」というのもある.これも新聞記者によく理解されている感情だ.ほかのひとは被害にあっているというのに,そしてその本人も予定が狂ったりしてコストを被っているはずなのに,彼らの喜びは特に非難もされなければ,奇妙に思われもしない.(「貴重な体験ができてうれしい」というのもあるだろうけど,そんなに決定的な要因とも思えない.) ただし,こちらは「喜ぶな」というしつけがなされて来たという話は聞かない.

ということでボクにとってこの夫婦の「苦痛」は感情的にはよく理解できない.しかし各紙の報道が普遍的と言えるくらいに被害者の苦痛を当然視しているからには,同じ人類として理性的には理解できるかもしれない.ということで当事者の感情面を重視したこの記事などを読んだりして考えてみた.

  1. まず,既に述べた nil-->nil (現状維持) というモデルがある.途中のプロセスは無視して,担当医にかかる前と後を比較する見方だ.途中の政治プロセスなどを考慮していては混乱するので,政策評価などではふつうのやり方かもしれない.これによれば,状況は悪化しなかったことになる.単純で分かりやすいモデルだが,残念ながらこのモデルでは新聞報道を理解できない.
  2. つぎに,nil-->1-->nil (現状から妊娠,そして現状へ) というモデルがある.このモデルを前提にしても,評価の可能性はいくつかあり,たとえば最初と最後の状態 nil だけに注目すればモデル A と同じになる.あるいは「ヒトは最後に経験した変化にともなう感情だけを記憶する」とでも仮定を置けば,最後の「妊娠から現状」という,医師のやった仕事のネガティブな部分だけが評価されることになる.公平とは言えないが,とりあえず新聞の一斉非難はこれで説明できる.

いずれのモデルにせよ,選択肢が nil と 1 だけでは状況を詳しく記述できていない.評価が「選好」にもとづいて行われるのであれば,その「選好」を記述する必要もある.

まず選択肢として忘れてならない情報は,「だれの子」かだろう.同じ妊娠すると言っても,その子が自分の子かどうか,自分の愛する男性の子かどうかで,その意味がまったくちがってくるというのは十分理解できる感情だ.妊娠状態を「1」とだけ表現してすべて同じにあつかうのはあまりに乱暴というわけだ.ここでは次の5つの選択肢を考える (じっさいに選択する対象ではないので「アウトカム」と言った方がいいかもしれないが,そこはポイントではない):

  • 11 (自分と自分の愛する男性の子を妊娠した状態)
  • nil (現状; 妊娠していない,妊娠しにくい状態)
  • 10 (自分と自分の愛さない男性の子を妊娠した状態)
  • 01 (自分以外の女性と自分の愛する男性の子を妊娠した状態)
  • 00 (自分以外の女性と自分の愛さない男性の子を妊娠した状態)

夫婦あるいは女性の選好としてはおそらくここにあげた順番か,10 と 01 が入れ替わるかではないか.あるいは 01 (自分の愛する男性とほかの女の子供を身籠ること) を最悪に思う女性もいるだろう.

いずれにせよ,2番目の nil と3番目の選択肢のあいだには大きなギャップがあると思われる.自分の身体というプライバシーが侵されるということからだけでも,じゅうぶん想像できる.レイプされたようなものだろう.(「レイプされてできた子供でも産みたい」という感情を持つ女性もいて,そういうひとはおそらく 10 を nil より選好するだろうが,考えない.今回の被害女性はそうではなさそうだから.) そんなふうに極端な言い方をすると,「みずから承諾したのだからプライバシーは侵害されていない」と反論されるかもしれない.(たとえば「バブルの頃ハワイの砂浜で新婚さんがセックスするのが流行ったじゃないか.あのとき多くの男たちががハワイに出かけ,暗闇の砂浜で相手を間違った振りをして他人の新妻とセックスして,『ハワイで作った赤ちゃん生まれそうよ』とか言われて,面倒なことにならないうちにさっさと逃げたとか……よくあったよなあ」とか.) しかし意図的でないにせよ相手は正しく情報を提供していないので,「承諾した」と言い切るのはむずかしいだろう.

ボクの科目で不可を喰らった男子学生がボクのところにやって来て,「すごくいいものを教えるので,可をください」と,自分の恋人が管理する超エロいマル秘写真サイトのアクセス方法を教えるような状況だ.ボクが男子学生から教わったユーザー名を語ってその恋人に自分のエッチな写真を見せてもらったとしたら,正しい意味で承諾を受けたことにはならないだろう.正しい承諾であるためには,ちゃんと自分の身を明かした上で正しい情報を提供して「あなたの彼氏は酷いやつだ.そんな彼とはさっさと別れなさい.ということで,ボクにも見せて」とやるべきである.

で,そのギャップが大きいと,今回のように nil-->z--->nil (ただし z は 00; 正確には 00 と 11 の「くじ」で 00 に高い確率を持つもの) というプロセスで,x のマイナス効果が大きくて効用の評価上とても無視できなくなるのだろう.これで少し分かって来た.

しかしこれでも説明としては不十分だ.いくら 00 (他人夫婦の子を身籠ること) にほとんど等しい z という状態の効用がひじょうに低いといっても,想像を絶するほどではないだろう.実際,00 というのは代理出産のことであり,外国では多くの人が金銭と引き換えに受け入れている.

つまり選択肢として上に挙げた5つでは記述できていないものがあるのだ.それは nil-->1-->nil というプロセス全体,特に先に述べた 1-->nil という「変化」にかかわる部分だ.その部分が z-->nil であれば効用が増加するのだから良さそうなものだが (じっさい問題の夫婦は人工中絶を選択したので効用はこの変化でプラスだったはずだ),この部分はじつは生命を奪いもしている.そして生命が奪われると言っても自然に奪われるのと,人工中絶で奪われるのはちがうだろうから,区別する必要がある.

となると nil-->x-->y という全プロセス中で,すべてに共通である最初の nil は無視できるにしても,x, y, そして「x-->y の変化のあり方」にかかわる情報は欠かせない.これら3つの要素からなる「一般化選択肢」を

(x, y, x-->y)

と書き,x, y は上記の5つの (基本レベルの) 選択肢のいずれか,そして変化のあり方 x-->y は id (無変化)または nat (自然流産) または abort (人工妊娠中絶) で表すことにする.すると,妊娠しなかったものはそのままなので x= nil ならばかならず y=nil となる.また,x が nil 以外のときは以下のようになる.

  • 妊娠状態が続けば,y = x で,変化は id,
  • 自然流産すれば y= nil で,変化は nat,
  • 人工妊娠中絶すれば y= nil で,変化は abort.

さて,妊娠しなかったときの一般化選択肢は (nil, nil, id),今回の事故で仮に自然流産したときの一般化選択肢は (z, nil, nat),そして今回の事故にあたる一般化選択肢は (z, nil, abort) ということになり,おそらく効用はこの順番で下がって行くだろう.z のひじょうに低い効用を考えると,最初の2つのギャップは大きいし,人工妊娠中絶の精神的負担を考えるとあとの2つのギャップも大きいかもしれない.いずれにせよ今回の (z, nil, abort) は現状維持に見える (nil, nil, id) よりもだいぶ悪そうだ.

ちなみに今回の (z, nil, abort) が中絶しなかったときの (z, z, id) よりも望ましいことは,当該夫婦のじっさいの選択から言えるはずだ.しかしなにか腑に落ちないものがある.「z という「くじ」が不確実性を残したままで中絶するかどうか選択しなければならない苦痛」というのが表現できていないためかもしれない.

「こんな面倒な議論をしないとお前は分からないのか?」とか言われるかもしれない.まあ,そのとおりだ.そして,その理解もあくまでも理性レベルの話だ.やはり感情的には「でももとに戻ったし,治療費くらいは取り返したんでしょう?」となってしまう.これって普通じゃないのかなあ? 「自分もそうだよ」と思う読者は少なくないと思うんだが,いたらコメントしてくれないかなあ.

あと,被害者が不特定ではない状況で記者に向かって頭を下げるのは自分には分からない.「こうこうこういうことがあって被害者には謝罪した」と説明すれば済みそうなもんだが.新聞記者が問題を起こしても,当の新聞社はその状況を客観的に報道するだけのことが少なくないような気がするんだけど,あれでいいのでは.「記者会見を開くからには謝罪しないと格好がつかない」という思いがあるのだろうけど,それにしてもヘンな慣習じゃないか?

お知らせ

このブログ左欄の information に「theorist2のはてなハイク」というのを追加した.ときには内容のないつぶやきもあるが,主として情報としての価値もありそうな短い記事を提供して行くつもりらしい.RSS 購読もできるので,RSS リーダーに登録することを theorist2 自身に代わってお薦めしておく.

追記 (2/22/2009)

せっかく得られた結論を否定するようなまとめ方になってしまったので,改めてまとめておく:

  • 「いずれにせよ今回の (z, nil, abort) は現状維持に見える (nil, nil, id) よりもだいぶ悪そうだ」と書いたように,結論は (ボク自身の直観に反して) 「かなりの精神的ダメージがあったのだろう」ということ.
  • 示談なり提訴なりによってそのダメージ (の一部) を取り戻したら,あとは忘れるのが合理的.サンクコストとしてあきらめるにあたっては,それ以上なにかできるかどうかが問題であって,もとの状態 (もとの効用レベル) を取り返せたかどうかは関係ない.

患者と病院側で被害にかんする評価が異なったのだろうと書いたが,じっさいは病院側が慎重な対応をしようとして評価を出すのが遅れたということらしい.県立ならじゅうぶんありそうな理由だ.もし病院側の言う通りならば,損害額の評価の違いはそれほど決定的な問題ではないかもしれない.じっさい患者側の弁護士は最初今回の請求額 2000 万円の半額程度しか求めていなかったと明かしているし.保険が利くのかどうかとか,日本全国で年間どのくらいのミスを許容するかのターゲット設定によるけど,「ミス1回につき一千万円の追加コスト」は抑止力としてどうなんだろう.

【2009/02/21 20:53 】
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