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ゲーム実験はゲーム理論の経験的妥当性の検証に使えるか?

ゲーム実験はゲーム理論の経験的妥当性の検証に使えるか? 答はもちろん "No" なんだが,少し困った問題が生じる. (実験以外の方法では反証できないとすれば)「ゲーム理論は反証可能性がない」ということになり,(ポポーに科学の定義を変えてもらわねば) ゲーム理論は科学ではないことになってしまう.まあ,科学じゃなくてもいいけど,そんなんでだいじょうぶか? (追記参照)

先週末は「気分転換」のため香川から外に出た.7月から本格的に取り組んで来た論文のイントロを書き終えたので,本文にもどって修正を続ける前に「甘いひととき」を過ごすことにしたのだ.

個人的な蛇足.それにしても最近の女の子はこちらが満足したかどうかを気にし過ぎじゃないか.いや,逢った子がたまたまそうだっただけか.尽くしてくれるのはありがたいけど,べつに風俗嬢とかじゃなくて素人娘なんだから「サービスの質」みたいな概念はないわけで.「いっしょにいるだけでうれしかった」というのはボクも同感.

「気分転換」に持って行ったのは『現代思想』2008年8月号.あの yyasuda がほぼすべての記事に目を通したという,ゲーム理論特集が載っている.じつはこの特集号を買うべきか迷っていたんだが,少し読んでの感想は,「所有する価値あり」だ.

というのは,この種の哲学的議論が載っている類書がなかなかないからだ.ゲーム理論の「ナッシュ均衡」自体,一瞬「自己言及じゃないか」と疑わせてしまう哲学的にもすごそうな概念だから,『現代思想』でゲーム理論が特集になること自体は不思議ではない.ただ,ふつうのゲーム理論家はそんな哲学的なことを考える必要はあまりない.だから「非ゲーム理論家の寄稿が多いんじゃないか?」とみなさん疑うかもしれない.でも,じつはけっこうゲーム理論家の寄稿が多い.さすが進化ゲームや実験などをやるひとたちは,合理性をすんなり受け入れる「正統派」とはちがうから,常日頃いろいろと哲学的思考を巡らせているのだろう.

表題の質問に答えているのは「「合理性」再考」という記事で,当記事の表題はその記事の副題から来ている.タイトルから反経済学的な内容を期待していたが,読んでみるとボクのように (?) オーソドックスな経済理論家と同様の見解だ.ただ,「あ~,よかった,オーソドックスな経済理論家は絶滅してなかったんだ!」とはならなかった.書いたのが非経済学者 (関根崇泰と茂木健一郎という認知科学・脳科学の専門家; ただし関根は経済学部出身のようだ) だからだ.ま,いいか.経済学者より賢そうなひとたちが経済理論の正統を力強く擁護するのはありがたいことだ.内容については folios というひとの記事も参考にしてもらうとして,いくつか感想などを列挙しておく.

  • ゲーム実験がゲーム理論の経験的妥当性の検証に使えないのは,実験者は被験者にゲームを強制できないからだ.せいぜいゲームフォームを与えることができるだけであり,実験者が想定する利得と被験者の利得とはべつものである.(かれらの挙げる例はじゃんけんだ.被験者は「何が何でもグーで勝ちたい」という選好を持っているかもしれないが,それは実験者の想定するゲームにおける選好とはたぶんちがう.) そして被験者がじっさいにプレーしているゲームは見えない.ゲームが特定できないから,プレーヤーが合理的かどうかもわからない.それだけのことだ.
  • しかしそれじゃ元も子もないので,多くの実験経済学者は誤解したふりをしているにちがいない (82頁下段の研究者の算段にかんする議論参照).ただ,「誤解」というのはわざと言っているのであって,ゲーム理論を純粋な数学的理論とみなせば,いろんな解釈があって当然.おもしろければ「誤解」もいいと個人的には思う.(もっとも,いろいろな解釈があるのは学問的混乱の原因にもなるので,やり過ぎには注意.最後の点は松島斉の指摘 (109頁) にも通じる.)
  • ゲーム実験はゲームフォームを与えることにより,実際にプレーされてるゲームを逆算する試みと考えることはできるかも.ただ,それじゃ「結果論」(85頁上段) となる危険もある.(応用上は問題ない? 追記参照.)
  • 「ゲーム実験はゲーム理論の妥当性の検証にならない」という議論は,メカニズムの実験の批判にはならないはず.メカニズム (ゲームフォーム) をあたえて実験するとき,じっさいにプレーされているゲームは実験者が想定しているゲームとは一致しないかもしれないが,それはたぶん問題ではない.利得の特定が目的ではなく,行動の予測が目的だから.実験者が想定してないゲームをプレーしていても,そのメカニズムがちゃんと動けばたぶん問題ない?
  • 著者とボクの見解が分かれる数少ない記述に「誰も,振り子がニュートンの運動方程式を解いてその運動を決定しているとは思わないであろう」(73頁) というのがある.(ポイントは「ヒトの行動も同様である」というところで,同様であることには同感だ.「同様」の中身がちがうわけだ.) 単に言葉の使い方のちがいといえばそうだが,ボクの見解は,三原靈珠の1994年の詩の一節と同じだ:教授は答える「犬は微分方程式を解いている
    • 追記.「単なる擬人法じゃないか?」って? たとえば「10メートルのロープを x メートル離れた二本のポールのあいだに張ったとき,ロープのいちばん低い点の位置はどうなるか?」という計算をじっさいにロープを張ってやるとすれば,「その計算を行っているのはロープである」と考えるのが自然だろう.ロープを張るひとが頭を使っているわけじゃないから.ちなみに最短路問題を解くダイクストラ法は紐で実現できる.そういう方法を carpenter's algorithm と呼ぶそうだが,この例もそうだろうか.
  • 経済学へのいわれなき批判への回答 (75頁以降) サンクス! 初学者にもすすめられる.
  • チンパンジーや幼児や自閉症児は狭い意味の合理的最大化を行う者としてふるまうことが知られていることについて,別解釈を出している.

この特集にはほかにもおもしろい寄稿が多い.いくつか挙げておく.

  • チキンゲームはすぐ切れる糸での綱引き (31頁).
  • 「障害」と松井彰彦.いまだに違和感あり.(追記.進化ゲーム理論や帰納的ゲーム理論を知らなければ障害学についていけないような時代がきたら,[分かりやすくなっていいことなんだけど] 違和感を覚えるひとが多いんでは.小島・松井の言い方を借りれば,それこそ障害学が「障害」を持つようにならないか? 「賢くないやつは障害学をやるな!」とか (悲).杞憂かなあ.)
  • 渡辺隆裕の「はじめに」(44頁) は笑える.ゲーム理論家はノイマンのように天才であることが期待される?
  • 岡田章の記事を論文共著者に読んでくれと頼んだ.関根崇泰と茂木健一郎のも.読んでくれるだろうか.
  • 二つの予測」を知りたければ松島斉の記事 (114頁周辺) を読もう.ただし図3に均衡はあとふたつある.
  • 松島によれば (118頁),神経経済学ってパターナリズムと結びつくらしい.「パターナリズム」っていえば,あれだろ---女の子自身の選択にまかせるというより,「今夜ボクと寝るんだよ」と強引にせまることで結果としてその子を歓ばせようとする奴.あぶないなあ.
  • 丸田利晶は (129頁),無用な混乱を避けるため,「合理性」という言葉自体を避けたがっているんだね.
  • 飛ばし読みだったけど,小島寛之の記事は意外性が高い構成になってて,エッセイ風.

追記 (10/26/2008)

冒頭の「ゲーム理論は科学じゃないのか?」という疑問に,とりあえずボクなりの回答を与えておこう.「(純粋) ゲーム理論は科学でないが,応用ゲーム理論は科学である」ということにすればいい.「とりあえず」の回答だから,こんなもんでいいだろう.応用ゲーム理論では,ある状況をゲームとして記述し,(合理性の仮説もとで) ひとびとの行動を予測する.その予測がじっさいと異なっていれば,ゲームの記述がまちがっていたと考えればいい.つまり「この状況はこういうゲームで表現できる」というのが反証できる仮説になっている.「ひとびとは合理的に行動する」という仮説自体は反証できなくても応用上特に問題はない.(関根・茂木が検証できないと言っているのは,この仮説にすぎないように思える.) 応用ゲーム理論家は,ゲームの記述,特に利得の特定を洗練させていけばいい.

ついでにいえば,プレーヤーの合理性は反証できないとはいえ,プレーヤー本人は自分が合理的であったかどうか判断できないわけではない.プレーされている状況から逆算したゲームを見て,「それは自分の利得じゃない」と判断できることがあるからだ.だからといって自分が合理性仮説にしたがっていないと結論するのは科学的手続きとしてどうかと思う.だが,じっさい理論家がゲームを記述するときは,自分がその状況にいたらどうだろうという素朴な感覚に頼って記述する部分も大きいはずだ.なにが言いたいのかよく分からない段落になってしまったが,要するにゲーム理論は非科学的手続きも援用しつつ現実に迫って行かざるをえないし,また,そうすればいい.

計算するロープの例,障害学の「障害」を追加した.

(HRM からの寄稿)

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【2008/10/25 08:33 】
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信長書店を超える大学図書館

図書館に移ることになった.他大学でいえば「研究開発室」と呼ばれるところだ.「平成香川大学図書館・情報機構 図書館研究開発室」か.学問の自由を強く主張して来たせいで,適任と思われたのだろう.図書館は (直接的には利用者の,前例を作るという意味では国民の) 知る権利や表現の自由を守るのが仕事だからだ.さらば GSM,さらば地域マネジメント研究科,学問のマナーくらいは守ってくれよ.

現実には学問の自由を守ることにかんして図書館が全学にたいして持つ影響力は絶望的なほど限定されているし,ボクが図書館にたいして持つ影響力もほとんどゼロだろう.だからできることは限られているのだが,それでも図書館専任教員あるいは研究員として,学問の自由の牙城にいるという気概を持たねばならないだろう.

ボクを支持した役員や同僚たちは,「平凡助教授に任せれば,信長書店 (香川にしかないみたい) を超えるエロコレクションを平成香川大学図書館に実現することができる」と考えてボクに投票したらしい.「平成香川大学は裏ビデオを所蔵する国内有数の大学図書館になる.全国からオタクが集まり,近隣でうどんの一杯や二杯も食っていくだろう.つまり立派な地域貢献にもなる」と考えたそうだ.

甘い! エロ DVD 屋で買えるものを,大学で買う必要があるのか? 設備は対応できるのか? たとえば
「AV 室にティッシュくらい用意しとけ,間抜け!」
というていどの苦情ならまだ対応できる.しかし真面目な話
「同室者がいるのにオナニーをしながらビデオを見ている教員をどうにかしてほしい.男子学生の前でやるならまだ許せるが,女子学生の前ですべきことではないと思う」
とか
「同室者がいるのにビデオを見ながらオナニーをしている教員をどうにかしてほしい.女子学生の前でやるならまだ許せるが,男子学生の前ですべきことではないと思う」
という苦情は必ず来るだろう.AV 室とか作りなおさなきゃいけなくなる.そういう余裕はないよ.

なに? 貸し出せばいいんじゃないかって? ううむ,そうか,それはいい質問だ.しかし,いくら集客効果があってオタクが集まっても,彼らは細密な分類くらいはできるだろうが,たいした学問的貢献はできないのでは.そんなの多数決で蹴られるに決まってる.多数決で決めるべき問題かと言えば否だが,それが現実だ.やりたきゃあんたが勝手に個人研究費から細々とカネ出してコレクション作ってくれ.ボクは止めはしないから.

「いや,信長書店のようなそのへんの並のエロビデオ屋で買えるものを入れろとは言ってないだろ.そういう並のところでは買えない,特別裏ビデオコレクションと数行上に書いてるだろうが,ボケ! 読解力のないバカなキミのために端的な例をあげれば,たとえば平成香川大学女子学生出演の裏アダルトビデオだ.まあ,これは一例に過ぎないわけで,読解力のないバカなキミでももっとマシな例くらい思いつくだろう.」

なるほど,わが大学女子学生出演というのはなかなかいいアイディアだ.おそらく国内大学図書館に類例を見ない画期的なものになるんでは.文部科学省とか文化庁あたりから「いいねえ,グッドだねえ」って補助金をもらえるかもしれない.個人的には応援したいのはやまやまだ.製作委員でも選定委員でもやってやろうじゃないか.(ただし選定委員会は,若くてキレイな女性図書館員とボクの二人だけという条件でないと困る.)

しかし,実現可能性低いんじゃないのか.同級生に見られるわけだし,出演希望者いるかねえ.全国の大学で試せば一年に数人くらいはそいういう娘も出て来るかもしれんが,わが大学でやっても10年に一人も希望者が出ないんでは.「コレクション」と言えるほどのものは作れないだろ.

ということで,大多数の同僚の期待には応えられない.すまないが勘弁して欲しい.どうしてもコレクションを作りたければ,まずは個人レベルで努力してほしい.いつの日か学生はもとより学長や図書館長やボクをあつめて試写会ができるようになれば,道は拓けるかもしれない.

学問の自由を守ること以外の研究開発室の仕事への抱負などは近いうちに述べるつもりだ.

参考文献

日本図書館協会. 図書館の自由に関する宣言.

追記 (10/11/2008)

図書館戦争」というアニメがあったんだね.知らなかった.「メディア良化法」と「図書館の自由法」の戦いらしい.現実に大学や図書館 (正確には寺院をはじめとする宗教組織など) は軍隊 (軍事組織) をもっていたわけだから,突飛な話ではない.

【2008/10/04 07:15 】
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さらば GSM

GSM (地域マネジメント研究科) を離れることになった.さよならしなければならないのは残念だ.この研究科はおかしなルールが多かったが,その適用の仕方もおかしなことが多かった.ルールを研究する者としていろいろ学ぶところがあった.まあ,GSM にかぎらず大学の学部や研究科というのはどこもそうなのかもしれない.

せっかくなので,以前「教員評価の書類を準備してみた」でとりあげた教員総合評価の事後報告でもしておこう.気になっている読者もいるだろうから.評価は A, B, C の三段階だ.

まず,研究科 (正確には研究科長ということになっている) は当初,書類不備を理由に,評価を出さなかった.どこが不備かは教えてくれなかった.

ボクは異議を申し立てた.異議申し立て回数に制限があるのかどうかは知らないが,制限があったばあい,これで一回にカウントされるというのは不利な話だ.

べつに書類を再提出したわけではないが,今度は研究科は評価を出して来た.わけわからん.いったい書類のどこが不備だったのだろう.総合評価は並の B だった.ああ,そうかい.

研究活動評価は A だった.これはひとえに研究としての価値がほとんどないケース教材 (類例はこちら) を作成したためだ.純粋に評価対策だった.それがなかったら C だった.

教育活動評価については,当然 A と思っていたものが C だったので驚いた.事後的に出て来た妙なルールがあり,その適用の仕方もかなり無理があった.ルールとつき合わせただけでは,どうしてそういう評価になるのか分からないので,自らの備忘用に記録しておいた.

  • 「教育活動に関する自己点検の評価」は C.ある報告書さえ提出していれば C にはならないとあり,ボクはきちんと提出したのだが,なぜか非提出扱いになっていた.ルールには書いてなかったが,なんでもプロジェクト研究という科目を担当しなかった者は今回は非提出扱いにしたとか.ああそうかい.担当したかどうかで決めるのね,手を抜いたかどうかでなく.ボクはその科目の担当を免れたかわりに別科目を担当させられたのだが,それはまったく評価しないわけか.はじめての科目だからもちろん準備に多大な時間がかかったが,それに留まらずプログラミングの勉強をし,IT の資格を取り,それらを活かして授業をしたのは無駄だったわけか.むなしいな.
  • 「学生による授業評価を参考とした自己点検の結果」は B. (ボクは重視してないけど) GSM が重視している「学生の満足度」で当該年度に最高点を記録した三科目のうち二科目はボクの担当科目だったんだが,なんで? 人数が基準に1人足りなかったということらしい.ああそうかい,そういう基準をあとから出して来たわけね (追記参照).数理的な応用科目だし,事前にきちんと情報提供したら受講生が限定されるのは目に見えているが,情報提供をしないほうがよかったということか? まあ,人数不足だけで A が突然 C にならないだけマシか.

そうかい,そうかい,よく分かりました.ボクは異議を申し立てないことにした.

追記 (11/4/2008)

学生による評価の人数基準が事後的に出て来たというのは不正確だった.研究室の引越の準備をしてて出て来た古い教授会資料に,評価基準が載っていた.それによるとたしかに人数については明示してあったので,あと出しではない.(ほかの点についてはやっぱりあと出しがあった.) ただしこういう基準は,評価書類の準備用に配布するマニュアル (これ自体なきに等しい) にふくめておかないと意味がないだろう.

ちなみにその資料にしたがえば,ボクの「社会貢献」は最悪でも B にしかならないはずだ.自己申告したネット上での活動を零点としても (これって重要な社会貢献なのにな),少なくとも二回やった論文レフェリーはカウントされることになってるから.数学の証明とかチェックしてると,レフェリー一回で丸一週間くらいつぶれることもざらだから,零点ということはないだろう.しかしなぜか社会貢献も零点を意味する C だった.証拠としてレフェリーリポートでも添付しないといけなかったのだろうか.

【2008/10/04 06:12 】
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