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LaTeX の定理環境の拡張

LaTeX での論文作成において,theorem-like environment は定理や命題などを表現するのに便利だ.ただし英語のばあい,通常は中身がイタリック体になってしまう.特に強調するわけでもない Remark や Example をイタリック体で表記されてもうれしくない.

このようなときは Frank Mittelbach の theorem package を利用するとよい.LaTeX が使える環境なら利用できるはずだ.たとえばプリアンブルで以下のように宣言すれば,Definition, Example, Remark の中身の書体が本文と同じになる一方で,Theorem などの書体は通常の定理環境のものになる.(Theorem, Proposition, Corollary, Lemma に同系列の番号が振られるというのは指摘するまでもないだろう.)

% Frank Mittelbach's theorem package
\usepackage{theorem}

\newtheorem{thm}{Theorem}
\newtheorem{prop}[thm]{Proposition}
\newtheorem{cor}[thm]{Corollary}
\newtheorem{lemma}[thm]{Lemma}
\newtheorem{claim}{Claim}

{\theorembodyfont{\normalfont}
\newtheorem{definition}{Definition}
\newtheorem{example}{Example}
\newtheorem{remark}{Remark}
}

theorem パッケージの説明は (システムのどこかにあるはずの Mittelbach のオリジナル解説以外に)『好き好き LaTeX2e 初級編』にある.(上記のように Theorem と Definition といった環境ごとに書体を変えられる点の説明は不十分だが.)

問題点

  • たとえばリマークの中身が数パラグラフに渡るときは,どこまでがリマークかマークをつけないと分かりにくいかも.
  • 定理ラベルの追加的説明のなかで \cite の類いを以下のようにオプション付きで使うとエラーになるようだ: \begin{prop}[{\citet[page~123]{arrow63}}].\protect を入れても解決できなかった.ま,定理名の部分に文献のページまで入れるのはやりすぎということだろうな.

リマーク.theorem パッケージを利用する以前は,以下のような環境定義をもちいていた.参考まで.

\newcounter{remark}
\newenvironment{remark}{\refstepcounter{remark}\bigskip%
\textbf{Remark~\arabic{remark}}.}{\enspace$\|$\bigskip}

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【2007/07/26 22:45 】
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平成香川大学教員総合評価の問題点

「教員評価は問題点だらけだ.さっさとやめたほうがいい!」といった根本的な解決策を理事たちは受け入れないだろう.少なくとも学内から主張しても彼らは聞く耳を持たない.学外の人事評価の専門家あたりに彼らを教育することを期待したい.ここでは現在想定されている案を少し改善することを考える.グローバルな最適ではなく,あくまでも微修正によるローカルな改善策を示す.なんて私は親切なんだろう.秋あたりから理事に抜擢されるかもしれない.

これにかぎらないが,そもそも大学で会議をやるときの「案」というのは,結論だけ書いている.なんの理由も説明もない.まったく説得力がない.なにかを提案するならきちんと理由を述べるべきであるという常識は,大学には通用しないようだ.

1. 年度はじめの目標設定とその実現確認

なぜか資料では触れられていないが,この評価方法でもっとも重要なのは年度当初の目標設定と年度後の達成状況の確認だったはずだ.年度はじめにその年度にかんする重み付けと目標を自己申告するというものだ. (重み付けとは,教育,研究,社会貢献,大学運営のそれぞれに計10点を配分するものだ.年度末総合評価は各項目の点数を重み付けしたうえで加算することで決まる.ただし GSM のばあい自由度が低く,9点分はすでに配分が決まっている.) しかし目標の実現には通常数年はかかることを考えると,このやり方は不適切だ.

  • 研究のばあい

    ほとんど説明不要だろう.今年論文を一本書くと目標を定めて仮に年度内に完成したとしても,じっさいにそれが刊行されるのは数年先だ.これでは成果を年度内に確かめることはできない.実際はすでに掲載が決まった論文が年度内に刊行されると予想するときに,その年度始めに研究の重み付けを高めにする---といった操作を事後的にやることになるだけだ.目標とその達成という関係はそこにはない.

  • 教育のばあい

    FD (Faculty Development) として,担当科目にかんする参考文献を読むのはひじょうに重要だろう.だが,そういう目標では実行したことを立証するのは困難だ.したがって目標設定としては目に見える結果を出せるものにならざるをえない.

    たとえば留学生に対応した授業ができるように,韓国語を学ぶというのは立証可能な目標だ.これは実際に韓国語を使った授業をすることによって立証できる.しかし一年以内に目標を達成するのは多くの教員にとって困難だろう.

    資格の獲得も立証可能な目標だ.たとえばオペレーションズリサーチの科目の教育能力を向上させるために,一級オペレーションズリサーチ技師,中小企業診断士,Certified Public Accountant の資格をすべて取るという目標を掲げたとする.これらが実現したかどうかは確かに証明可能だが,少なくとも私の場合一年以内に獲得できる自信はない.

    (ちなみに FD として評価項目に入っているのは「馬鹿ルティディベラプメント」とよばれる研修会への参加だけである.「FD」といえば組織的な研修のことと思っているのだろう.すごく恣意的だ.研修会なんかよりも関連情報の載った web サイトでも読んだほうがよほどためになるのに.ということで上に上げたような目標がどこでカウントされるかは不明.)

以上により,研究であっても教育であっても目標実現には通常数年はかかることが理解できたことだろう.(また,立証可能な目標を立てることの意義も疑問に思われるだろう.関連分野の最新成果を学ぶといった重要な努力が削減されるから.) 目標設定とその実現で評価するなら,より長いタイムスパンが必要である.もし年単位でやるならば目標設定や事前の重み付け申告はやめたほうがいい.DEA (data development analysis; 包絡分析法) のように,評価対象者にとってもっとも有利になるように事後的に重み付けを決めれば済むはずだ.現状でもすでに完成した研究成果の発表をある年度に先延ばしして,その年度当初に研究の重み付けを高めるといったタイミングの操作は可能である.発表のタイミングと申告のタイミングという二変数の操作の巧さ次第で評価が左右されることを考えると,重み付けをあらかじめ申告しない方式の方が変数が減る分弊害が減るのではないか.

2. 研究活動評価

2.1 「研究費獲得状況」が評価されるのはまちがい.

これはカネがかかっているというだけで会社のあるプロジェクトが評価されるようなものであり,明らかにおかしい.研究費はその研究が完成するより前に出るものだから,その研究にたいする評価とはなりえない.研究に資金が必要であることを認めたに過ぎない.研究としてカウントできるのはあくまでもその研究費獲得の結果として出したアウトプットであるはずだ.

2.2 評価基準

評価は A, B, C の三段階だ.良い方である A または B を獲得する必要条件は,成果物の種類で分類された項目2つ以上が該当することだ.論文を10 本書いても評価は C である.(その一方で,論評一本とできの悪いポルノ小説 [ケース教材; 分析は一切いれずに記述に徹した文書] 一本で B 評価は得られる.あるいは論文1本と研究ノート1本ならば,項目二つが該当するので B 評価は得られる.同じものを論文とよぶか研究ノートでよぶかだけで研究評価が Cになったり A になったりする.) 組織全体としての活動あるいは個人の長期的な研究活動に幅を持たせるという意図ならば,理解できなくもない.しかし対象期間は 3 年である.分野にもよるだろうが,ひとつの研究を構想して完成させるまでの期間にも及ばないかもしれない.このような短期間に成果を上げるには,特定の項目に集中しなければなかなかむずかしいはずだ.提案された評価方法は,大学の研究水準を下げることを目的にしたものと思わざるをえない.

2.3 . Web 上の情報発信

Web での情報発信はどの項目にふくまれるのか明確にしてほしい.たとえばほとんど研究ノートのようなブログ記事もあれば,より一般人を対象とした記事もある.これらは研究活動や社会貢献活動のどの項目にふくめればよいのか? 学術機関リポジトリにかんする別資料にも"Online or Invisible" (オープンアクセスでないものは存在しないに等しい) とあったように,Web 上での情報発信はきわめて重要である.平成香川大学における経済学の知名度の重要部分は良くも悪くも私の Web サイトに負うている! (主観的に聞こえるかもしれないが,これって常識だ.恐ろしいくらい実感している.だって「平成香川大学」を名乗るのはこのサイトくらいだから.) その重要な貢献を評価しないのは極めて恣意的であり,私個人を不利に扱おうという意図が見え見えである! 特定個人を想定してその個人に不利になるようにルールを作るのは不公平の極地だ!

あんたね,だれのおかげで (経済学徒のあいだで) 平成香川大学の輝かしい (というか最低限ギリギリの) 名声が保たれてると思ってんだ,ボケ! 自分としては,表彰されないことのほうが不思議だよ.

2.4. 年度単位での評価はおかしい

学術誌や書籍はどの年に出版されたかというのが重要であって,どの年度というのは重視されない.論文における引用文献の書き方を見ればあきらかである.これらを年度単位に評価するとなると,(ときには不明な) 出版月まで調査する必要が出て来る.データの管理に余計な手間がかかる.出版物は1月から12月までをもって構成する年単位で評価するようにしてもらいたい.一年は 4月にはじまって3月に終わるというサイクルで世界が動いてるわけじゃないよ.ほんとその井の中の蛙の地動説の頭,(じゃなくて天動説だな; 7/27/07 追記) どうにかならないか!

3. 運営活動

3.1 役職による貢献ばかりを基準にしている

役職とは無関係な貢献をふくめるべきだろう.たとえば GSM の公式サイトについて私は各種の具体的提案をしている.人知れずモデルプログラムを作ったのも,科目群の英語名をアドバイスしたのも,各種規定のさまざまな穴を列挙したのもいったいだれだったんだろうね.その一方で役職にあっても,たとえば教員評価の資料の記入方法さえまともに説明できないひとがいたりする.(そのためもあって,私は今年度資料を提出できなかった.) 情報を独占して仕事の流れを止めてくれるひともいる.貢献と役職にあるかどうかとはたいして関係ないのではないか.

3.2 平均以上の授業負担は運営活動とは関係ない

なんで平均以上の授業負担が運営活動でカウントされるのか? カウントしたいならば,運営にたいする重み付けをゼロにするのを認めればいいだけだ.なんでこんな複雑なことをするのか.

4. 教員評価全般

一大学がこのような恣意的な教員評価を導入したところで,研究や教育が改善できるとは思えない.できるというならば,なにが改善するのか具体的に挙げて欲しい.少なくとも研究の分野では研究者たちが長年かけて築いて来た評価基準が確立している (例外分野はあるにしても).学内で高く評価される一方で世界でまったく相手にもされないような研究者をこれ以上増やすことは,さっさとやめたほうがいい.

【2007/07/20 11:26 】
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北爪満喜 見つけちゃった

前回の記事の本文でとりあげた高校教師の進路指導の詩をちょっと探してみた.見つけられなかったので,知ってる人はそちらの記事にコメントしてくれ.

かわりに北爪満喜のサイトを見つけちゃった! ウフフ.ミネソタにいたころ,日本語といえば現代詩しか読まなかった時期があった.いろんな詩を読んでいたが,『ルナダンス』とか『アメジスト紀』は繰り返し読んだものだ.『虹で濁った水』も読んだ記憶がある.

世界を凍らせてガラス細工みたいにして,それを壊してばらばらにして,拾い上げて継ぎ合わせて,また粉々に割ってばらばらにして……って感じの詩なんだけど,そんなこと言っても分からないよな.文字通り取れば残酷なハズの場面も多いんだが,軽いタッチで書かれているのでボクは文字通りはとれない.文字列あるいは記号が,意味もなく実在感もなく展開している……とか言ったら詩人はがっかりするだろうか.でも,ま,ボクという鑑賞者にかんするかぎりそんな感じだ.

これ以上説明してもしょうがない.リンク先の実物を見てくれ.残念ながら日本語に溺れてしまったいま,ボク自身は現代詩の世界に素直に入って行ける状態ではない.横書きってのもちょっと勝手がちがう.でも,眺めているとなんとなくあの頃の,感覚がもどって来そうな気がしている.

追記. まったく関係ないけど,ほとんどフリーハンドの (?) 線で描いた香川大学キャラクター,なかなか素敵だよなあ.すぐ陳腐化する危険もあるだろうけど,流行の先端って感じじゃないか.「キャラクター」とか言いつつ,実態は立体感のまったくない「シンボル」になってるのも,意表をついてていい (ほとんど反則じゃん).抽象度が高いため,頭文字が K ならば香川大学にかぎらずどこでも使えてたはずだっていう「土着性の欠如」はあるけど,それって弱さじゃないのかもな.この「K 大わんこ」(とでもよんでおこう),じつは地元では笑われてるらしいがボクはいいと思うぞ.少なくとも現在の大学の公式ロゴ (役所風) に比べればぜんぜんいい.この大学はセンスがいいのか悪いのか,集団的意思決定とは不思議なものである.

【2007/07/13 19:26 】
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中途半端な授業見物: もっと謙虚になれよ

経済学部では教員相互の「授業参観」をやるらしい.以前も実施した学科はあったが,今度は大学の要請を受けてやるようだ.

授業参観って,一回か二回かの講義に出るということか? それじゃ百害あって一利なしだろう.それぞれの科目には,その科目の方針というものがある.その科目なりのスタイルというものもある.

「それも分からんのか,ボケ! 貴様それでも日本男児か! 生きてる価値ない! さっさと死ね!」

って具合に,竹刀振り回しながら厳しくやるスタイルの教員もいるだろう.ボクが中学時代に受けた授業はだいたいこんな感じだった.公立だったんで教師もヤクザのようなもので,校内でヌンチャクを振り回していた.むかしはそれが普通だった.それが正常だったのだ.

「『実務的なスキルが身につかない授業は要らない』ってお前,スキルってものは学校で教わるものがすべてじゃないよな.大学入って以来,自らどんなスキルを身につけたんだ言ってみな.フェラチオぐらいなもんじゃないのか? フーゾクへの就職を目指しているんならそれでもいいが,そうじゃないならもう少し考え直した方がいいぞ」

とアカデミックな科目を擁護する一方で,適格な進路指導をする教員もいるだろう.(「あんたは東大 あんたは阪大 あんたはバカ あんたはエッチ」って感じの,高校教師による愛情あふれる有名な詩があったのを思い出したけど,正確ではない.) じっさいに殺したりなぐったりするのは問題だが,これらは問題ない.単なる発言なのでなんの物理的力も持たないからだ.これらは平均からやや外れるであろう例であり,ボク自身は必ずしも好きではないが尊重したいスタイルである.

(なにしろボク自身は「バカ」という言い方も---会津大学公式ページあたりに比べれば---戦略的にしかやってないつもりなので.それにしてもそこの教員一覧にさりげなく「バカな政治家がITを『イット』などと読んで浮かれ騒ぐずっと以前からコンピュータは既に社会の基幹として重要な役割を担っています」とか載ってるのは笑える.)

しかし世の中にはおかしな大学教員もいるもので,こういうやり方に難癖をつけたりするのだ.いや,意見として言うだけならいいんだが,問題は強制力に訴えてそういうやり方を排除しようとすることだ.学生と教員のあいだにそういうスタイルへの合意が明示的にも暗黙的にもできているのに,それをぶちこわそうとするバカがいるのだ! そういうバカにかぎって,環境問題とかフェミニズムとかで,まったく社会的にも受けられない主張を授業で堂々と展開していたりする.要するに自分の勝手な主張は展開するが,ひとの主張は強制力に訴えて (大学の統制によって) 潰そうとするわけだ.自らは学問の自由の恩恵を受けておきながら,ひとの学問の自由を奪おうとする腐ったやつらだ.

一回や二回の授業を見物するだけでは,その教員あるいはその科目独自の方針やスタイルは分からないだろう.参観した当日がたまたま特殊なスタイルをとった日 (たとえば質問に答えるだけの日; 質問が途切れれば授業終了) に当たるかもしれない.その教員の方針を理解したうえでなければ,的確に授業が行われているかどうか判断できるわけがない.単にその教員の目指す基準とは異なる勝手な基準で判断してしまうだけだ.評価される側から言えば,自分の目指す目標の実現に助けにならない意見なんかもらってもなんの参考にもならない.ひとによっては事前にシラバスを丹念に調べて教員にインタビューしたうえで参観するばあいもあるだろうが,スタイルなんてものは言語化できない要素が多いので,インタビューをしたところで正確に理解することはできない.ましてやそのような理解もしょうとせず,単に自分のやり方をおしつけるだけの意見なんか,単なる好みでありほとんど役に立たない.嫌われる教えかただからといって教育効果が高いとは言えないが,低いとも言えないのである.教育効果があがっているかどうかは,全体を見ないと分からないのだ.

ボク個人は平成香川大学着任以来,記憶にあるだけでも 6 科目以上の授業に参加した.それらすべての科目でほとんど全回通して参加した.(ほかに一度くらいしか参加しなかった授業もあるにはあるが,それは授業方法の評価が目的ではなかった.そんなやり方で公平な評価などできないのは分かっている.なんの参考にもならないだろうという前提で感想くらいは伝えるが,たぶん参考にはなっていない.) あくまでも学生の立場に立つならば,評価しようという姿勢は捨てた方がいい.ボクの科目を通して聴講してくれた教員も少なくとも 4 人はいる.授業について意見を聞くことのメリットは十分知った上で言っているのだ.

経済学部では,授業をビデオ種録し,それを見て「授業参観」としようとベテラン教授が提案したが,反対されたそうだ.「ビデオでは臨場感がない」というのが反対理由らしい.「臨場感」というのはよく分からないが,効果的にビデオに授業を収録するのはむずかしいというのならよく分かる.GSM ではすでに多くの授業を収録していて,それがひどいからだ.たとえばホワイトボードの一部しか映ってないなどの問題があって,とても見るにたえないのだ.こんな使えないシステムにいったい何千万 (何億だっけ?) 使ったんだという感想が残るのみだ.(それもあってボクは Macintosh PowerBook の QuickTime で録音した音声ファイルと教材のネット配信だけに留めている.) 経済学部のそのベテラン教授の授業をビデオで見たこともあるが,そちらは低予算ながら技術的にはマシだった.しかし,やはり全体像を捉えていない.

全体像を捉えていないというのはメリットもあればデメリットもあるわけであり,それを知ってビデオを利用すればいいだけの話だ.臨場感がないからこそ,冷静に見ることができるという面もあるだろう.ビデオをとおして自分の授業を学生サイドから見てこそ,他人の指摘が理解できるという面もあるかもしれない.(学生に人気の高いある准教授は「私は、黒板に書いた図を、教壇から離れてあえて学生のサイドからみて、わかりやすく書けているかどうかを確認するということの方が、ビデオでみるよりはるかに意味があると思っているんですよね」と発言したらしい.他人が確認できてもあまり意味はない.学生が教員に変わるだけだからだ.教員本人が確認するためにはビデオも使ったほうが [普通は] いいんじゃないか.ちなみにボクのばあい,ビデオを見ても自分が意図した通りになっていることが分かっただけであり,得られた情報はほとんどなかった.たぶんこれは自分が計算し尽くして授業に望んでいたためであり,やや特殊だろう.)

経済学部の連中はビデオを一部取入れるという発想はなかったんだろうか.デジタル思考がそれほど得意でもなさそうな人間にかぎってデジタル思考しかできなかったりするのはなんとも皮肉だ.そもそも一回やそこらの参観で済ます時点でまちがっているのだから,その一回で全体像を捉えていないからと言って拒絶するのは目くそが鼻くそを笑うようなもんだ.

とにかくやることが中途半端な連中だ.やるなら徹底的にやれ.それができないなら一切やるな! おっとデジタル思考だな,これ.笑

追記 (7/16/2007). ボクの科目を聴講した教員は 3 人ではなく最低 4 人いたことを思いだしので本文を修正した.非協力ゲーム理論でひとり,メカニズムデザインでひとり,規範経済学への公理的アプローチでふたり.ボクがこの大学で受講した科目は以下をふくむ: 非協力ゲーム理論,協力ゲーム理論,中級ミクロ経済学,投票制度分析,日本政治にかんする外書購読,生産管理システム論.ボクの授業への教員の参加は歓迎だが,(毎回出席しないまでも) まずは学ぶ姿勢が欲しい.それがないとアドバイスをくれても「あ,そう」って感じでボクを素通りするだけだろう.一度や二度の「授業参観」に効果があると考える連中は通りすがりのアドバイスが相手の役に立つなどと期待してるのだろうが,かなり傲慢だと思う.かれらの何がおかしいのかなかなか分からなかったけど,けっきょくは謙虚さがないというのが真実だろう.今後ボクは「平凡かつ謙虚な助教授」とでも名乗ろうかな.

【2007/07/13 15:55 】
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科研費非申請者アンケートへの回答

科学研究費補助金未申請者 (非申請者じゃないか?) にたいするアンケートが届いた.5月25日付けの文書で,ボクに届いたのは 7月2日.ちょっと遅くないか.じつは遅いからこちらから請求してみたのだ.どうやら
「科研費の申請資格がない先生に,どうして申請しなかったかというアンケートをお願いするのはおかしいのではないかという,学部事務の判断で先生に送付しませんでした」
ということのようだ.たしかにおかしいけど,そういう配慮は無用だ.お願いされても答える義務がないということはこちらもすぐ分かる.しかしバカな質問にもよろこんで答えるのが教員の資質の一部であるならば,バカなアンケートにもよろこんで答えるのが研究者の資質の一部であるかもしれない.そもそも大学が気にする申請率を計算するときは自分もちゃんと分母に入れられている.不利に扱われる対象にもなる.そしてアンケート用紙自体にボクの名前が入っている.黙っているわけにもいかないだろう.

さらに追加すれば,ほかの非申請者が「自分は量だけでいえば研究業績は出しているつもりである.質が問題であるという批判は甘受する」と回答していたのに違和感を持ったからである.(もう少しアピーリングに?)「科研費を獲得することを目標にすると,研究の量を減らさざるをえない」と言い直せばかなり納得できるが,それでも自分とは多少認識がちがうようである.というわけで自分もアンケートに協力してやることにした.

Q1 平成19年度科学研究費補助金に申請しなかった理由はなんですか?(複数回答可)

A1 以下が該当する.

  • 他の業務が忙しい 研究など
  • 応募できる研究種目がない 「人文・社会・情報科学の包括的すごい研究」などのテーマ
  • その他

さらに詳しく状況をご記入下さい。(業務内容、その他理由を詳細にご記入下さい。)

  • 科研費を獲得することを目標にすると,研究のクオリティを下げざるをえない.

    • 研究に余計な制約条件が入る,つまり科研費は研究にとって邪魔.科研費を獲得することを目標にすると,特定の価値観 (国民統制の強化や環境問題解決といった国家目標や審査委員の関心など) に沿った研究を申請することになる.特定の価値観に沿うという制約のもとで自分ができる最高の研究は,当然ながらそのような制約なしで自分ができる最高の研究より低いクオリティにならざるをえない.研究の制約は少ないほどよい.科研費申請を強要するのは,クオリティの高い研究はするなと言うに等しい.
    • 自分の研究を正当に評価できる専門家が国内にいない.自分がこれまでもっとも成果を上げて来た研究対象は,経済理論と情報科学の境界領域に属するある基礎的問題である.その領域の研究者はごく限られているうえ,その問題の専門家は自分と共著者以外には国内に存在しない.とても正当に評価される状況ではない.したがって科研費を獲得することを目標にすれば,苦手な分野の (より質の低い) 研究を申請することになる.

      (あるいは「人文・社会・情報科学の包括的すごい研究」といった,制約の少ないテーマで申請することになる.そういう広範なテーマで応募できる分野があるのだろうか.申請書のエッセンスは「だれも思いつかなかったようなすごい問題をだれも思いつかなかったようなすごい方法で解決する.必要経費は1円でも多すぎるかもしれないし,1兆円でも少なすぎるかもしれない.その用途も額も私をふくめだれにも予測できない.とにかくすごいことになりそうだ」ということになろう.[ブログ読者への注釈: 自分で作るのは面倒なので,だれかこの線ですごい申請書を作ってネットで配布してください.申請者情報さえ書き込めば完璧な申請書になるようにしてもらえればありがたい.] これでいくら獲得できるだろうか.)

    なお,科研費に縛られたためクオリティの低い研究をせざるを得なかったという言明はたしかに簡単には見つからないだろう.事実であっても明言したところで利益はないからである.だが科研費の類いがなかったためある研究ができたという言明はしばしば見られる.たとえば在日の研究者によるあるペーパー (Kumabe, M., Mihara, H.R., Computability of simple games: A characterization and application to the core, Journal of Mathematical Economics (2007), doi:10.1016/j.jmateco.2007.05.012; available as MPRA Paper 3296) の謝辞は,

    余計な研究費を獲得していたら,この研究はできなかったであろう

    と明言している.この種の言明はいちいち論文には書かないが,じつのところ私の研究の大部分に当てはまる.

  • 申請書を準備するための資料,特にジャーナルが不足.科研費を獲得するためにレベルを落とした研究をするには (International Journal of ??? ??? や International ??? ??? Review といった) 中堅ジャーナルまでふくめた文献調査をする必要がある.しかし平成香川大学ではそれらは入手できない.情報科学分野の主要ジャーナルも入手できないことがあった.これではまともな申請書は書けない.外部資金の獲得に左右されない安定した研究基盤があってはじめて,外部資金の獲得をするための環境が整う.
  • 研究者にとって科研費は研究のための手段であって目的ではない.手段と目的を取り違えてはいけない.科研費の奴隷となり科研費を神とするのは愚かだ.大学にとっては科研費獲得自体が目的になるかもしれないが (そうであるなら研究成果を出すことが目的でないとはっきり言うべきだろう),それならば小額しか獲得できない研究を奨励しても効果は低い.自分が申請する額は高々数万円ていどだろうから,獲得できたところで大学にとってはほとんどプラスにならない.それよりは自分が申請しないことによりほかの研究者の獲得のチャンスを高めたほうが大学のためにもなる.
  • そもそも自分は科研費の申請資格を持たない.科学研究者番号を持たないからである.申請する資格がない者が申請しないからといって,大学が問題にするのは筋違いである.申請できない者を不利に扱うのは不公平である.

その他科研費は問題だらけである.書くと長くなるので以下の記事「科学研究費補助金のデメリット」の全文を回答にふくめたい: http://theorist.blog6.fc2.com/blog-entry-70.html

総合的に判断すると,現時点では自分にとって獲得のデメリットのほうがメリットよりもはるかに大きい.そういった個々の研究者の事情を無視して一律に科研費申請を強要するのは,hostile な研究環境を作るだけだ.COE (Center of Excellence) と称する研究機関にたいしてわが大学の持つ比較優位 (研究の組織化・制度化が軽度であることなど) を失い,研究者の流出を加速することにもなる.もっと研究者の自律性と自由とを基本に据え,個々の研究者を尊重した研究環境を整備してもらいたい.

Q2 どのようにすれば今後科学研究費補助金に申請することができますか?

A2(制度面、インセンティブ等、ご自由にご記入ください。)

自分自身のことは研究テーマ次第なので分からない.研究をすすめるのに資金が必要で,科研費以外からそれを得ることができなかったら申請するだけの話だ.以下は一般論として答える.

  • そもそも申請数や申請率を上げることを目標にするのはまちがい.研究者個人の目標としてはもちろん,大学の目標としても疑問.研究者としては研究成果をとおして学問的あるいは社会的貢献をするのが目的であり,補助金を獲得するのは手段にすぎない.手段と目的をとりちがえてはならない.「どのようにすれば今後科学研究費補助金に申請することができますか?」という質問にたいしては,「科研費がなければできないような研究テーマを選ぶ」のが正解だろう.質問が狂っているのは明らか.
  • 科研費を獲得できなかったときに保証される最低限の研究費を高く設定する.最低限の保証が低いと,獲得できなかったばあい予算不足で研究計画を大幅に変更しなければならなくなる.また,すでに開始した研究ならば中断することになる.そのようにリスクが高いので,補助金を必要とするような研究テーマははじめから選ばないことになる.なお,上でいう最低限の研究費を科研費申請者に限定しても意味がない.単に獲得の見込みのない申請を増やすだけである.すべての希望者に一定水準を与える必要がある.
  • 関連するジャーナルを長期にわたって安定的に購読する.ジャーナルのような研究基盤が科研費獲得に依存するのは問題.ジャーナル購読が中断しても次の年に再開されるのを期待して,そのジャーナルの記事を取り寄せるのを先延ばししがち.その間研究は遅れ,補助金申請書もまともなものが書けない.そもそも補助金は特定の研究のために獲得するものだろう.ほかの研究にも使える,ジャーナル購入といった一般的な用途に使うのは「流用」ではないか.ジャーナルが揃ってなければ大学は優秀な研究者を集めることもむずかしい.
  • 申請率を上げるために申請資格者を絞る.分母が小さくなれば率は上がる.

以上

【2007/07/04 18:18 】
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大学院研究科はダメ組織の典型か?

GSM のワーキングペーパーシリーズの発行要領が決定した.教授会に参加できなかったボクが事前に指摘した問題はそのまま残っていた.

「ISSN ナンバーをつけるのはやめたほうがいいです.ワーキングペーパーとして発表したものが既出版物あつかいになって,ジャーナルに掲載できなくなる可能性が高まるので.また,いまの時代に印刷版の提出をもとめる意義はないでしょう.印刷物あるいは電子版あるいは両方からの選択にして,自由度を高めるといいと思います.」

まあ,それはたいした問題ではないかもしれない.決定した発行要領にはもっと深刻な不備があるからだ.学生あるいは教員以外が著者にふくまれるばあいについての言及がないのだ.(「教員の単著」「学生単著」「教員と学生共著」についてのみ言及.特に「学生単著」については詳細に規定を定めている.日本人は規則が好きなんだな.) たとえば教員が他大学の研究者と共著で書いた論文は,このワーキングペーパーシリーズでは発行できないことになる.そういう意図であったのならば不備ではないが,たぶんそういう意図ではないはずだ.個人が作ったものならばこのていどの見落としが出るのは仕方ないかもしれないが,なんで多人数で数ヶ月かけたものでこうなんだ!

要するに GSM の意思決定システムはこういう初歩的なミスさえ見逃してしまうようなボロボロなものなのだ.教授会を開いてもみんな頭使ってないってことだ.これは集団的意思決定にたよる組織一般の問題か,それとも大学の学部や研究科特有のありがちな問題か,それともこんな感じのサイトを平気で放置するようなわが GSM 特有の問題か. (この例にも見られる,"English" という文字が大々的にトップにくるようなデザインは止めた方がいいとずっと言って来た.英文学をやるところではないのだから.ほかにも英語がひどいとか [単語レベルでいえば "teacher" の使用とか],日本語サイトの教員の掲載順序が分かりにくいとかいろいろ文句を付けているが,改善する気はないようだ.なお,リンク先は「イメージ」であり,わが平成香川大学とは一切関係ない.) こんなんでマネジメントなんか教えられるのだろうか.会議を開くのはやめて,文書ベースで意思決定したほうがマシかもしれない.

【2007/07/03 17:17 】
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ありがた迷惑な copy editing

ジャーナル投稿論文のゲラ刷り (校正刷り) が出版社から pdf で届いた.Acrobat Reader 7 以降を使えば pdf に直接修正を書き込める.だがボクはメール本文にリストして返事することにした.記事は24ページで修正箇所は数え方にもよるが 60 箇所強だった.LaTeX のファイルを提出したので,文章自体の打ち間違いはほとんどない.だが体裁を整えるためにコピー・エディタがいろいろと手を加えている.ボールド体をイタリック体にするとか,大文字だったものを小文字にするとか,左辺が等しい一連の式をひとまとめにして場合分けした形で表すとか,定理も命題も補題も例もリマークもみんな連番にするとか.多くは無害だが,なかにはありがた迷惑なものもある.(出版社は formatting, copy editing, and the like を value-adding publisher activities というけど,価値を減じているものもある.) 今回はチェックの途中でやる気を失ったため,一日の読書休憩 (オブジェクト指向の本を読んだ) をいれて終了となった.

出版社側 (コピー・エディタ他) による修正で,こちらが再修正を要求するようなものをリストしてみよう.

  • iff (if and only if の略) を if に置き換える.これは数学論文では極めて深刻.今回はなかったが.
  • 単語をまるごと消してしまう.直前を修正したときのミスか.
  • 長い証明のなかの Step 1,Step 1.1 などの範囲をまちがえる.それらのラベルのついている段落だけをその step と考え,そこだけ (インデントするなど) リスト項目あつかいする.たとえば Step 1 は 10 個の段落からなっているのに,最初の段落だけが Step 1 であるかのように見えるように手を加える.証明の構造を分かりやすくするための著者側の努力が,かえって混乱の原因になるわけだ.今回はこれがいちばん深刻な問題になっており,チェックしていていやになった.Copy editor に誤って読まれないように気をつけてはいるんだが.
  • 改行して新たなパラグラフをはじめるべきところを,前のパラグラフに続けてしまう.(上述の Step の範囲の読み違えによる.)
  • LaTeX のリスト環境を使って入力した項目でも,項目が複数パラグラフからなっていると,最初のパラグラフだけをそのリスト項目だと認識する.項目が複数パラグラフになるのは絶対に避けなければならないのかなあ.
  • 定理の証明の中で補題を入れると (分かりにくいかもしれないが,普通にやられている),補題の前に定理の証明終わりのマークを挿入する.また,補題の証明終わりのマークを消す.
  • 垂直のスペースを消す.(上述の補題の証明のあととか.) どうでもいいスペースならば体裁上消されるのは仕方ない.でも,どうでもいいスペースははじめからなるべく入れないことにしている.区切りを入れないと分かりにくいから入れているんだが.
  • スペースを消す.特に括弧の前後.
  • \ref を使ってリマークのナンバーを参照しているのになぜか普通の数字に置き換える.そのためリンクが切れている.
  • リストの項目名がボールドだったのをイタリックに直したあと,ピリオドをいれていない.ピリオドがないと項目名と項目内容が続いて分かりにくい.
  • 証明終わりのマーク■をふたつ■■にする.
  • ダッシュ (---) をハイフン (-) の類いで置き換える.ハイフンをマイナスサインで置き換える.
  • コンマを外すと意味が変わってしまうところでコンマを外してしまう.たしかに今回修正された文はコンマが多かったのは認めるけど.
  • 著者名の表記をまちがえる.たとえば H. Reiju Mihara という名前があったとして,H. と Reiju の間のスペースを抜かしたり,H. R. Mihara と略すべきところで H.Reiju Mihara としたり.原稿にちゃんと「Family name は Mihara」と書いていてもだ.
  • 参考文献で著者名をまちがえる.もともと J. J. Bartholdi III, C. A. Tovey, and M. A. Trick と原文にあったものを,BibTeX の処理にまかせて Bartholdi III, J. J., Tovey, C. A., Trick, M. A とした自分も III 世の位置がおかしいとはおもったが,いくらなんでも Bartholdi, J.J., Tovey, C.A., Trick III, M.A. とはならないだろう.III がほかのひとのところに行ってるではないか!
  • 人名を小文字で始める.Turing を turing と修正するとか.
  • 文書内のリンクを誤った場所に飛ばす.これは修正は要求しなかったけど多かった.

追記 (7/2/2007). さらに5箇所ほど修正を加えて出版社に返事した.ダッシュやハイフンにかかわるもので,当初は仕方ないかと無視していた.しかしちゃんとなっているところのほうが多いので,修正を求めることにした.

【2007/07/01 23:58 】
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