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ビジネススクールで学ぶ意思決定分析

土曜日はわが GSM (マネジメント研究科) の授業にオブザーバー参加して来た.KBS (草分けビジエススクール) の外部講師が担当する「意思決定分析」の 1-3回目の授業だ.(90 分×3回分をこの日やった.かなり強引なスケジュールだ.講師に払う旅費節約のためにまとめてやってもらっているのだろう.)

ボクの隣に座った去年ボクの科目を取った学生たちに,なぜその授業に参加しているのか尋ねられた.自発的な FD (ファカルティー・ディベラプメント) の一環だと考えてくれればいい. (「FD」というのは,大学教員の教育能力向上のために行っている組織レベルの研修を指すことが普通.本来 FD とは研究能力の向上のためのものや個人的な自己開発もふくめるべきだろう.しかし現状の FD は,それらの犠牲の上に行われている.) GSM では専門家を呼んでケースメソッド教授法の研修を行うなど,活発に FD に取り組んで来た.(ただしケースメソッド研修は自分はさぼった.ボクが教えるような科目では,マイナスの効果がプラスの効果を上回るのは目に見えているので.) 今回は GSM が組織レベルでやっている FD とはべつに,個人的に関心があって授業にオブザーバー参加してみたのだ.ボクがある程度知っている内容を,草分けビジネススクール教授ならどう教えるかという関心をもって参加したわけだ.

「意思決定分析」が個人的意思決定をあつかうとすれば,ボクの科目「資源配分の公平」「配分ルールと厚生」は集団的意思決定をあつかうと言えるかもしれない.前者は後半で複数のプレーヤーを考えはするものの,あくまでも個人的視点からの最適化を考えようとしている.後者は複数の人間のあいだの調整が重要なテーマになる.ビジネスの表舞台では前者の個人的最適化の視点が重要だろうが,後者の公平さの視点も組織の安定性を高めるなど補助的な機能を持つと思う.いずれの科目も「どう決定するか」という規範的な問題をあつかう.ボクは集団的な決定の専門家なので,その前提である個人的決定はとうぜん完璧に理解している.(もちろん「個人的決定は完璧に理解」というのは冗談.「その前提である」と限定すればほぼ「完璧に理解」しているといってもウソではないだろうが.) ということで「ある程度知っている内容」と書いたわけだ.

率直な感想をひとことで言えば,「よくあれだけの話題で4時間半も持たせられたなあ」ということになる.その日やったのは,概観とデシジョンツリー分析とリスク選好理論だった.デシジョンツリーというのは,非協力ゲーム理論で習う展開形ゲームで,自分と「自然」だけしかプレーヤーがいないやつだ.リスク選好理論では効用関数を記述して「リスク回避的」「リスク中立的」「リスク愛好的」という言葉を説明した.概観を除けば 2, 30 分で終わってしまいそうな話で,経済学の学部上級以上の授業でそんなに時間をかけたら学生を退屈させるかもしれない.だが,学生はそれほど退屈しているような表情を見せていなかった.顧客の需要に応えようとして,長年授業内容をそぎ落として来た結果があれなのかもしれない.

もちろん学ぶべき点はいくつかあった.それらを自分が実行できるかというとむずかしいのだが.たとえば「コ」の字型に配列されている机の間の空間部分に出て来て,学生を名指ししながら例として用いる (各学生は机の上に名札を置いている; 女子学生が言及される傾向,「コ」の上下水平線左付近のひとは言及されない傾向があった),積極的にディスカッションを促すあたりはビジネススクールの授業としては序の口か.学生は講師が求めなければ発言しないということなのだろうか.(ボクは自分が教える各科目の最初の授業で,こちらがしゃべっているのを中断して発言する学生がいないことを毎回奇妙に思う.自発的な発言にはじめから任せていてはダメなんだろうか.) ノートも見ずにスムーズにしゃべり続けるというのはべつに大学教授としては普通の能力なんだろうけど,それなりに感心した.(自分にはむずかしそうだ.それをやれば確かに核心を伝えることはできるだろうが,言及しておきたいことをかなり言い忘れてしまうだろうから.) 自分がコンサルティングにかかわった分野の事例を用いることなんかも,いかにもビジネススクールらしくていいんじゃないか.(これも自分にはむずかしい.)

学生にたいする率直な感想は,「非協力ゲーム理論やらなかったの?」だ.(GSM では大部分の学生がゲーム理論の授業を履修する.) 企業家がある事業に投資をすべきかどうか,まず調査してから判断すべきか,という事例についてディスカッションがあった.学生からは,「これまでにだいぶ損を重ねて来たのだから,もう開き直って自分は投資する」とか,「調査するしないにかかわらず投資が成功する確率は変わらない.だから調査しても仕方ない.調査しないこととして,残った選択肢は投資するかしないかのふたつだ」とか,「調査してみてうまく行きそうだったら投資する」といった (と受け取らざるを得ない) 発言が連発されていた.経済学の大学院生だったら出てこなかったはずの発言だ.さすがビジネススクールの学生は冗談が好きで目立ちたがり屋が多いということなら心配はないんだが…….

これらの発言のいくつかは,一般論としては有効だろう.ところがこの事例ではじゅうぶんなデータが与えられている.たとえば調査結果が「成功しそうだ」と出る事前的な見積もり (確率) は 0.1 で,その際はじっさい 0.8 の確率で投資は成功する,ただし調査費用は一千万円かかる---といった具合に信頼できるデータが存在するのだ.それらのデータを無視した一般論がまかり通る状況ではない.じっさい,期待利潤を最大化するという仮定のもとでの分析結果はこうだ:

もし調査する場合,調査結果が「成功しそうだ」と出れば投資し,「失敗しそうだ」と出れば投資はやめるのがいい.ただし,調査結果が「成功しそうだ」と出る見積もり 0.1 を考えれば,調査費用一千万円は高すぎる.調査せずに投資すればもっと期待利潤は高いからだ.よって (調査せず投資もしないばあいよりも期待利潤は高いことも確認できたうえで) 調査せずに投資するのがいい.

結論だけを見れば「これまでにだいぶ損を重ねて来たのだから,もう開き直って自分は投資する」発言と同じだが,その論理構造はぜんぜんちがう.「ロジカル・シンキング」といった言葉がかっこいいと思っているうちは,まだまだ論理的思考ができていないのかもしれない.(非論理的なことを言えば---thinking の発音は絶対 sinking にはならないので,「ロジカル・シンキング」はとてつもなくかっこわるい!)

最後に,参加した学生の疑問を解消するため,いくつか細かなコメントを列挙しよう.(フィクションの大学の学生に向けて情報提供するというのは,まるで自分の登場するドラマを見ている登場人物に向かって,ドラマ内から外に向かって情報を提供するような妙な話とおもうだろう.そこまでロジカルに考えようとすると自己言及の矛盾におちいって沈んでしまう可能性が高いので,考えないほうが身のためだ.)

  • 受け取り金額の期待値 (利潤プラス現残高の期待値) を最大化するという仮定のもとでは,たとえば 2分の1で100万円当たるくじは確実にもらえる 499,999 円よりも望ましい.金額の期待値を最大化することを講師は「《平均》に置き換えて考える中学以来の悪い癖」とかなんとか言っていた.しかし,数学者はそんなにいい加減な言い方はしていないんでは.「このくじで受け取る金額の期待値はなんでしょう?」「A さんは受け取る金額の期待値がおおきいほうがいいと考えています.このとき,このくじと確実な 499,999 円のどちらをえらぶのがいいでしょうか?」といった具合に,仮定を明示しているんじゃなかろうか.ま,設問を作るのは数学者というより数学教師だからべつかなあ.
  • 講師は「《平均》に置き換えて考える癖」という言い方を15回以上はしただろう.ところがなんの平均 (期待値) かは一度も言わなかった.じっさい標準的な意思決定理論でも,期待金額を最大化するとは考えない.しかし「期待効用」(期待利得) を最大化するとは考える.「平均」を考えることにはちがいないが,その平均する数字がちがうのである.講師はある学生に一問一答を繰り返してその効用曲線を描き,その学生がその状況では危険愛好的になっていると言った.ところがこの「危険愛好的」ということば自体が,次で説明するように「平均」を考えることを前提とした概念なのだ.
  • 講師は横軸に金額を取り,縦軸に効用を取る「効用関数」のグラフが下に凸である (下に向かってふくらんだカーブになっている) ときその状況で「危険愛好的」と言った.だが,その意味を十分説明しなかったのは残念だ.ここで効用関数が下に凸であるというのは,金額の期待値の効用よりも,金額の効用の期待値のほうが高いということだ.2分の1で100万円当たるくじの例で言えば,金額の期待値は (1/2)×100+(1/2)×0=50 万円で,その「金額の期待値の効用」というのは u(50) となる (u(50) は50万円受け取ったときのその企業家の効用).一方,「金額の効用の期待値」というのは (1/2)×u(100)+(1/2)×u(0) である.前者は確実な50万円の効用,後者は (期待利得の理論では) くじの効用ということになる.危険愛好的なひとは,ある期待金額を持つくじのほうを,その金額を確実にえられることより好むのである.
  • 「選好を変えるのはむずかしいと教授は言ったが,一千万円やれば効用曲線は変わる」というボクの質問について.講師の返答は,「効用関数で考える領域が 0 万円から100万円の領域だったのが,こんどは 1000万円から1100万円の領域に変わる.選好自体は変わらない」というものだった.それはまったく正しい.ただ,グラフで 0 万円に相当する原点がどういう状況かはそもそもひとによって異なる.あるひとは20万円の資産を持つ現状を原点とみなしたうえで,プラス100万の120万になったらどうするかなどと考えて,効用曲線にかんする質問に答えたはずだ.あるひとは2 億円の資産をもつ現状を原点と考えて答えたかもしれない.そのようにひとによって原点に対応する状況はちがう.そうならば,一千万円もらった状況というのをあらたな原点に対応させて効用関数のグラフを書き直と考ることは自然であり意味がある.その結果の効用関数はもとのものとはちがうはずである.
  • 「なんで名門草分けビジネススクールの教授が平成香川大学に教えに来たのか?」というボクの質問について.「平成香川ビジネススクールの研究科長に言われたから」という最初の返事では,講師自身の意思決定の説明にはなっていない.そこを突いたところ,興味深い発言を得られたのはよかった.しかし,それらは地方大学がビジネススクールをやるかどうか,やるならどうやるかという意思決定にかかわる議論だった.ボクが聴いたのは講師個人にとってのメリットのようなものだ.「平成香川の地域マネジメント研究科は興味深い事例」であるとは言っていたが,「興味深い」事例であるからといって自分が教えにいくということにはならない.もう少し本音を聞きたかった.もちろん率直な返事が得られるのは期待していなかったけど.

以上コメントしたことのいくつかは,授業が済めば忘れてしまうような細かなことかもしれない.しかし,理論の詳細を忘れてしまうにしても,いちどあるていどのところまで理解した上で忘れるのは,はじめからまともに理解しないこととはちがう.(後者は高々「通勤大学 MBA」シリーズあたりを読み流したていどの理解と考えるといい.そのシリーズの実物を見た記憶がないので憶測だが.) 忘れるにしても,理論の有用性や限界なんかを理解して印象に残しつつ忘れれば,思考を行った経験がいざというときに似た状況で力となるはずだ.「通勤大学 MBA」シリーズを読むにしても,それ以前にその分野について思考した経験があれば得られるものも大きくなるであろう.

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【2006/10/15 11:48 】
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