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お菓子の専売なんかしてどうするの?

志々島では菓子の専売という全国にも珍しい制度があったのでその概要を述べる.この島で菓子を販売することのできる者は入札によって落札し,ただ一店だけである一島一店で独占できるが年間に落札した額の金を納めなければならない.島ではこの金を公共事業の資とした.その代り寄付金など余程のことでないと集めない.この使途を相談する役を区会議員といって村会議員の形式で投票によってきめる.この制度は明治維新以前からあったと伝えられている.これが廃止になったのは終戦後である.(新修 詫間町誌, 詫間町誌編集委員会編, 詫間町役場発行, 昭和46年, 531頁)

もう止めたのね.菓子の専売はおもしろくないが,考え方自体はおもしろい.それで税金払わなくて済むなら「反対」の立場を考え直してもいい.ただ,ボクはお菓子はけっこう食べるんで,ギャンブルなどほかのものにしてもらいたい.だれか経済分析してみては.なお,志々島ってのは香川県の詫間町にある東西1キロくらいの島.

しかし「政府」ってのはなんでも好き勝手に専売にしていいのかね.「専売」ではないけど,さいきん香川県でもこんな事件があった.医療法人徳洲会が観音寺市に進出しようとしたところ,「地元の病床数が必要数に達した」といって県が進出を妨害 (開設中止を勧告後,開設を許可,ただし保険医療機関に指定しないと通知) したのだ (四国新聞: 徳洲会の病院新設で高松地裁「中止勧告は適法」).ベッドが足りているから進出させないって? それじゃダメな病院がなかなか潰れてくれないじゃない.裁判官は提唱者も嫌う「過剰参入定理」でも援用したんだろうか.

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【2006/10/23 03:48 】
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バカルティ・ディベラプメント

安井という教授のサイト (とりあえずリンクしておくが,この教授のサイトはすぐ書き換えられるのでもと文書は見当たらないかもしれない) で,FD (ファカルティ・ディベラプメント) についてと思われる感想を見つけた.その教員は大学にはじめて職を得た当時授業を厳しくやろうと思ったが,ある先輩教授とちがって落とせばいいというやり方はしなかった.教員それぞれが自分の教育観を持ってやればいいと考えたそうだ.その文末にやや唐突に

「だから、合格率がどの授業でも同じになるなどということは、大学そのものの否定に等しいと思うのですがね」

とあるのは,FD あたりで「合格率を統一しよう」という一意見があったということなのだろうか.(学部として本気で考えているとしたらヤバいが.)

受講人数もレベルも将来の必要性もまちまちの科目間で合格率を統一するのはおかしいとはだれでも思うだろう.しかし (一年生向け入門科目とか,それを前提とした二年生向け科目とか) 同一レベルの多人数授業同士なら合格率を統一するのも悪くないのではと思うひとはいるかもしれない.だが,大学の現状を考えると,合格率を統一するという考えは想像以上に問題が大きい.

たとえば,「そもそも正しいやり方というのが分からないのだから,いろいろなやり方を競合させ,共存させておくべきだ」という理由もあるだろう.「カリキュラム上同一レベルの科目でも,その後の必要性に差がある.別科目履修の前提となるため,ある程度高いレベルできちんと理解してもらっておく必要がある科目もある.そのような科目で学生をいい加減に合格させると,教育プログラムが崩壊する」といった理由もあるだろう.

現状で合格率を統一するのが問題なのは,明らかにルール破りの,誤った合格率に統一される可能性が高いからだ. (悪い) ルールを無視するのが平気な自分がいうのもなんだが,単位制度は教室での 90 分 (2時間とみなされる) 授業にたいして 4 時間ていどの自習を想定している.ところが大部分の科目では,この制度の規定を無視して成績認定を行っている.過半数,いや 9割の学生が授業 90 分あたり高々 1 時間しか自習していないような科目で,なぜか過半数をはるかに超える合格が出ていたりするのだ.単位制度のルールにしたがえば,本来はほぼ全員を落とさねばならないはずだ.このようなルール破りの科目が大勢のなかで合格率を統一しようとすれば,統一された合格率は間違った不当なものになる可能性が高い.だから問題が大きいのだ.正しい者が誤った多数派に裁かれるのである.誤った方法を強制されるのだ.(いくら「正しいやり方は分からない」といっても,これだけ規定とギャップがあれば,それが「正しくない」ことに議論の余地はないだろう.)

もちろん,「まちがっていることは分かるが,学生の現状を考えると云々」という議論もあるだろう.教員がそういう生温い態度だからダメなのだ.教員側さえ心を入れ替えて厳格になれば,学生は数日で変わる.じっさい,卒業するつもりで米国の大学に留学した学生の多くは,日本の大学でのやり方ではダメなことをすぐに悟って勉学態度を変えるものだ.

もし安井の学部の FD でこんな議論をしていたとしたら,そうとう時間を浪費したんではないだろうか.そんな FD には出ないのがベストだろう.ところが FD というのは出ないと個人的には損をする仕掛けになっていたりするのでやっかいだ.

FD とはじつは BD (馬鹿ルティ・ディベラプメント) であって,研究しない教員がほかの教員の足を引っ張るための制度であると理解すれば,そういう仕掛けが出て来ることも納得できる.(いうまでもなく「研究」という言葉は,平均的な教員がいちばん「研究」していることになるように再定義されている.) もちろん FD に社交的な意義があって,単におしゃべりを楽しんでいるというなら,それはそれで悪くない.それが学生のためになっているのかというのは別問題としても.

つまり留学,学内委員免除,あるいは授業免除の優先順位をポイント制のような仕掛けで決めていたりするわけだ.たとえば FD に出ればポイントが加算されるなどと.そのため (気分の良いとはいえない) おしゃべりでしかない FD に出て教育改善に「協力する」ことが教員個人の観点からはベストになっていたりする.そしてみんなが「協力して」参加する結果,みんなが時間を浪費するというだれも望まない状態が実現する.ほぼ囚人のジレンマの構造だ.(大部分の教員が参加しているときにさぼる心理的コストはかなりのものだろう,ポイントもさることながら.大部分の教員がさぼっていると,ポイントをちょっと稼ぐだけでも得をする.教員の望まない状態が実現したとしても,それが学生にとってよいものなら,それはそれで意義もある.しかし現実は学生にとって悪いものになっている.) 状況が囚人のジレンマだから説得はむずかしいのだが,教員はもう少しモラルを持つべきだろう.この状況で「協力する」のは悪いことなのだ! その認識から出発して,ゲーム自体を作り変えて行く必要がある.

同じことはたとえば,出勤簿に印鑑を押すような裏切り行為にも言える.大学側に「協力する」とけっきょくは自分自身のクビを閉めることになる.

「学生の評価が高いのは若手教員である」のは,かなり長い間一貫してみられる現象だ.けっきょく,多くの学部で行われているような FD よりも,就職のための競争や若手だけが持てる時間のほうがずっと有効な FD の機会を提供しているわけだ.(在職期間が長くなるにつれて学生の評価が下がっているとしたら,大学の提供する FD の効果---足を引っ張るというマイナスの効果---が現れているとも考えられる.) 競争に晒されて来た (その結果いまどうなっているのか残念ながら確認できない) 若手の書いた「アメリカでの学部教育の技術: 戦略的教育とは何か」でも読んだ方が,へたな FD に参加するよりためになるだろう.集団的な FD はバカ教員にまかせ,互いの足の引っ張りあいをさせておけばよい.それが道徳的態度というものだろう.

【2006/10/21 18:53 】
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ビジネススクールで学ぶ意思決定分析

土曜日はわが GSM (マネジメント研究科) の授業にオブザーバー参加して来た.KBS (草分けビジエススクール) の外部講師が担当する「意思決定分析」の 1-3回目の授業だ.(90 分×3回分をこの日やった.かなり強引なスケジュールだ.講師に払う旅費節約のためにまとめてやってもらっているのだろう.)

ボクの隣に座った去年ボクの科目を取った学生たちに,なぜその授業に参加しているのか尋ねられた.自発的な FD (ファカルティー・ディベラプメント) の一環だと考えてくれればいい. (「FD」というのは,大学教員の教育能力向上のために行っている組織レベルの研修を指すことが普通.本来 FD とは研究能力の向上のためのものや個人的な自己開発もふくめるべきだろう.しかし現状の FD は,それらの犠牲の上に行われている.) GSM では専門家を呼んでケースメソッド教授法の研修を行うなど,活発に FD に取り組んで来た.(ただしケースメソッド研修は自分はさぼった.ボクが教えるような科目では,マイナスの効果がプラスの効果を上回るのは目に見えているので.) 今回は GSM が組織レベルでやっている FD とはべつに,個人的に関心があって授業にオブザーバー参加してみたのだ.ボクがある程度知っている内容を,草分けビジネススクール教授ならどう教えるかという関心をもって参加したわけだ.

「意思決定分析」が個人的意思決定をあつかうとすれば,ボクの科目「資源配分の公平」「配分ルールと厚生」は集団的意思決定をあつかうと言えるかもしれない.前者は後半で複数のプレーヤーを考えはするものの,あくまでも個人的視点からの最適化を考えようとしている.後者は複数の人間のあいだの調整が重要なテーマになる.ビジネスの表舞台では前者の個人的最適化の視点が重要だろうが,後者の公平さの視点も組織の安定性を高めるなど補助的な機能を持つと思う.いずれの科目も「どう決定するか」という規範的な問題をあつかう.ボクは集団的な決定の専門家なので,その前提である個人的決定はとうぜん完璧に理解している.(もちろん「個人的決定は完璧に理解」というのは冗談.「その前提である」と限定すればほぼ「完璧に理解」しているといってもウソではないだろうが.) ということで「ある程度知っている内容」と書いたわけだ.

率直な感想をひとことで言えば,「よくあれだけの話題で4時間半も持たせられたなあ」ということになる.その日やったのは,概観とデシジョンツリー分析とリスク選好理論だった.デシジョンツリーというのは,非協力ゲーム理論で習う展開形ゲームで,自分と「自然」だけしかプレーヤーがいないやつだ.リスク選好理論では効用関数を記述して「リスク回避的」「リスク中立的」「リスク愛好的」という言葉を説明した.概観を除けば 2, 30 分で終わってしまいそうな話で,経済学の学部上級以上の授業でそんなに時間をかけたら学生を退屈させるかもしれない.だが,学生はそれほど退屈しているような表情を見せていなかった.顧客の需要に応えようとして,長年授業内容をそぎ落として来た結果があれなのかもしれない.

もちろん学ぶべき点はいくつかあった.それらを自分が実行できるかというとむずかしいのだが.たとえば「コ」の字型に配列されている机の間の空間部分に出て来て,学生を名指ししながら例として用いる (各学生は机の上に名札を置いている; 女子学生が言及される傾向,「コ」の上下水平線左付近のひとは言及されない傾向があった),積極的にディスカッションを促すあたりはビジネススクールの授業としては序の口か.学生は講師が求めなければ発言しないということなのだろうか.(ボクは自分が教える各科目の最初の授業で,こちらがしゃべっているのを中断して発言する学生がいないことを毎回奇妙に思う.自発的な発言にはじめから任せていてはダメなんだろうか.) ノートも見ずにスムーズにしゃべり続けるというのはべつに大学教授としては普通の能力なんだろうけど,それなりに感心した.(自分にはむずかしそうだ.それをやれば確かに核心を伝えることはできるだろうが,言及しておきたいことをかなり言い忘れてしまうだろうから.) 自分がコンサルティングにかかわった分野の事例を用いることなんかも,いかにもビジネススクールらしくていいんじゃないか.(これも自分にはむずかしい.)

学生にたいする率直な感想は,「非協力ゲーム理論やらなかったの?」だ.(GSM では大部分の学生がゲーム理論の授業を履修する.) 企業家がある事業に投資をすべきかどうか,まず調査してから判断すべきか,という事例についてディスカッションがあった.学生からは,「これまでにだいぶ損を重ねて来たのだから,もう開き直って自分は投資する」とか,「調査するしないにかかわらず投資が成功する確率は変わらない.だから調査しても仕方ない.調査しないこととして,残った選択肢は投資するかしないかのふたつだ」とか,「調査してみてうまく行きそうだったら投資する」といった (と受け取らざるを得ない) 発言が連発されていた.経済学の大学院生だったら出てこなかったはずの発言だ.さすがビジネススクールの学生は冗談が好きで目立ちたがり屋が多いということなら心配はないんだが…….

これらの発言のいくつかは,一般論としては有効だろう.ところがこの事例ではじゅうぶんなデータが与えられている.たとえば調査結果が「成功しそうだ」と出る事前的な見積もり (確率) は 0.1 で,その際はじっさい 0.8 の確率で投資は成功する,ただし調査費用は一千万円かかる---といった具合に信頼できるデータが存在するのだ.それらのデータを無視した一般論がまかり通る状況ではない.じっさい,期待利潤を最大化するという仮定のもとでの分析結果はこうだ:

もし調査する場合,調査結果が「成功しそうだ」と出れば投資し,「失敗しそうだ」と出れば投資はやめるのがいい.ただし,調査結果が「成功しそうだ」と出る見積もり 0.1 を考えれば,調査費用一千万円は高すぎる.調査せずに投資すればもっと期待利潤は高いからだ.よって (調査せず投資もしないばあいよりも期待利潤は高いことも確認できたうえで) 調査せずに投資するのがいい.

結論だけを見れば「これまでにだいぶ損を重ねて来たのだから,もう開き直って自分は投資する」発言と同じだが,その論理構造はぜんぜんちがう.「ロジカル・シンキング」といった言葉がかっこいいと思っているうちは,まだまだ論理的思考ができていないのかもしれない.(非論理的なことを言えば---thinking の発音は絶対 sinking にはならないので,「ロジカル・シンキング」はとてつもなくかっこわるい!)

最後に,参加した学生の疑問を解消するため,いくつか細かなコメントを列挙しよう.(フィクションの大学の学生に向けて情報提供するというのは,まるで自分の登場するドラマを見ている登場人物に向かって,ドラマ内から外に向かって情報を提供するような妙な話とおもうだろう.そこまでロジカルに考えようとすると自己言及の矛盾におちいって沈んでしまう可能性が高いので,考えないほうが身のためだ.)

  • 受け取り金額の期待値 (利潤プラス現残高の期待値) を最大化するという仮定のもとでは,たとえば 2分の1で100万円当たるくじは確実にもらえる 499,999 円よりも望ましい.金額の期待値を最大化することを講師は「《平均》に置き換えて考える中学以来の悪い癖」とかなんとか言っていた.しかし,数学者はそんなにいい加減な言い方はしていないんでは.「このくじで受け取る金額の期待値はなんでしょう?」「A さんは受け取る金額の期待値がおおきいほうがいいと考えています.このとき,このくじと確実な 499,999 円のどちらをえらぶのがいいでしょうか?」といった具合に,仮定を明示しているんじゃなかろうか.ま,設問を作るのは数学者というより数学教師だからべつかなあ.
  • 講師は「《平均》に置き換えて考える癖」という言い方を15回以上はしただろう.ところがなんの平均 (期待値) かは一度も言わなかった.じっさい標準的な意思決定理論でも,期待金額を最大化するとは考えない.しかし「期待効用」(期待利得) を最大化するとは考える.「平均」を考えることにはちがいないが,その平均する数字がちがうのである.講師はある学生に一問一答を繰り返してその効用曲線を描き,その学生がその状況では危険愛好的になっていると言った.ところがこの「危険愛好的」ということば自体が,次で説明するように「平均」を考えることを前提とした概念なのだ.
  • 講師は横軸に金額を取り,縦軸に効用を取る「効用関数」のグラフが下に凸である (下に向かってふくらんだカーブになっている) ときその状況で「危険愛好的」と言った.だが,その意味を十分説明しなかったのは残念だ.ここで効用関数が下に凸であるというのは,金額の期待値の効用よりも,金額の効用の期待値のほうが高いということだ.2分の1で100万円当たるくじの例で言えば,金額の期待値は (1/2)×100+(1/2)×0=50 万円で,その「金額の期待値の効用」というのは u(50) となる (u(50) は50万円受け取ったときのその企業家の効用).一方,「金額の効用の期待値」というのは (1/2)×u(100)+(1/2)×u(0) である.前者は確実な50万円の効用,後者は (期待利得の理論では) くじの効用ということになる.危険愛好的なひとは,ある期待金額を持つくじのほうを,その金額を確実にえられることより好むのである.
  • 「選好を変えるのはむずかしいと教授は言ったが,一千万円やれば効用曲線は変わる」というボクの質問について.講師の返答は,「効用関数で考える領域が 0 万円から100万円の領域だったのが,こんどは 1000万円から1100万円の領域に変わる.選好自体は変わらない」というものだった.それはまったく正しい.ただ,グラフで 0 万円に相当する原点がどういう状況かはそもそもひとによって異なる.あるひとは20万円の資産を持つ現状を原点とみなしたうえで,プラス100万の120万になったらどうするかなどと考えて,効用曲線にかんする質問に答えたはずだ.あるひとは2 億円の資産をもつ現状を原点と考えて答えたかもしれない.そのようにひとによって原点に対応する状況はちがう.そうならば,一千万円もらった状況というのをあらたな原点に対応させて効用関数のグラフを書き直と考ることは自然であり意味がある.その結果の効用関数はもとのものとはちがうはずである.
  • 「なんで名門草分けビジネススクールの教授が平成香川大学に教えに来たのか?」というボクの質問について.「平成香川ビジネススクールの研究科長に言われたから」という最初の返事では,講師自身の意思決定の説明にはなっていない.そこを突いたところ,興味深い発言を得られたのはよかった.しかし,それらは地方大学がビジネススクールをやるかどうか,やるならどうやるかという意思決定にかかわる議論だった.ボクが聴いたのは講師個人にとってのメリットのようなものだ.「平成香川の地域マネジメント研究科は興味深い事例」であるとは言っていたが,「興味深い」事例であるからといって自分が教えにいくということにはならない.もう少し本音を聞きたかった.もちろん率直な返事が得られるのは期待していなかったけど.

以上コメントしたことのいくつかは,授業が済めば忘れてしまうような細かなことかもしれない.しかし,理論の詳細を忘れてしまうにしても,いちどあるていどのところまで理解した上で忘れるのは,はじめからまともに理解しないこととはちがう.(後者は高々「通勤大学 MBA」シリーズあたりを読み流したていどの理解と考えるといい.そのシリーズの実物を見た記憶がないので憶測だが.) 忘れるにしても,理論の有用性や限界なんかを理解して印象に残しつつ忘れれば,思考を行った経験がいざというときに似た状況で力となるはずだ.「通勤大学 MBA」シリーズを読むにしても,それ以前にその分野について思考した経験があれば得られるものも大きくなるであろう.

【2006/10/15 11:48 】
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公共政策系大学院入試問題: プルードンは癒し系?

数日間寝込んでいた.人生の意味なんかを考えていた.長く寝過ぎたせいか,昨日はまったく頭が働かなかった.

いや,悩んでいたわけではない.研究者のばあい「研究するために生きる」という一致した見解 (?) がある.「じゃ,なんのために研究するのか? (ありがちだが) 社会のためか? 愛 (つまりエッチ) のためか? 神様のためか?」とまじめに考えたら循環論法にならないだろうかとか,そんなことを考えていた.自分のばあい,サイクルはなかった.しかし,「ナッシュ均衡」のようなきちんと定義できている概念であっても,見た目には循環論法に見えないこともない.「循環論法」とはなんだろうか……とか考えていた.

ところで「研究するために生きる」というのは本音か.なかには「生きるために研究する」という研究者もいるかもしれない.しかし「儲けるため」(縁がなさそうだ) とちがって,「生きるため」ではあまりに目標が低すぎて実感が持てない.「研究するために生きる」という考えのほうがずっと分かりやすい.じっさい,研究以外にいろんなことができそうな博士でも,研究できそうになくて人生に見切りをつけることは多い.ボクのこの文章を読んで「これで私も見切りがつきました」とコメントしてあの世に旅立つ博士もいるかもしれない.あまり気持ちよくはないが,学者人生とはそういうものだ.ただ,若くてかわいい女性だったらそのまま死んでしまうのはもったいないので連絡して欲しい.スケジュールが合えばエッチくらいはできると思う.まあ,自殺志願の女の子でもなかなかやらせてくれないとこに問題の本質があるんだが.この近所に多いなかなかよさそうな死に場所を案内してあげれば,取引に応じてくれるだろうか.例によって話が逸れてしまった.

というわけで,働かない頭でノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』を眺めていた.ボクが留置所,拘置所,あるいは刑務所に持って行きたい本のひとつである.(ああいうところは冊数制限があるだろうから,分厚い本を持ち込んでおけば,なんども届けてもらう手間を省けて効率的なのだ.1000ページ近くある MWG もあまり読んでないので持ち込んだ方がいいかもしれない.) 功利主義だかロールズの格差原理だかの批判とおもわれる「眼球くじ」の議論を探したのだが,残念ながらみつけられなかった.ノージック作ではないのかも.(訳本 343 ページに「あなたは何年もの間ずっと目が見えてきた.だから今,あなたの眼の片方---それとも両方---は他の人々に移植されるべきだ」とあるのを見つけたのみ.)

かわりに訳本 16-17 ページに,癒される引用を見つけた.詩人の田村隆一と共通する世界がある.特に公共政策を学ぶ学生には何度も読んで丸暗記してもらいたい文章だ.次回のわが専門職大学院の入試問題にちょうどいいかもしれない.たとえばこんな感じの問題はどうだろう.

問題.以下の文章は P.J. プルードン「十九世紀における革命の一般理念」(渡辺一訳, 世界の名著 42, 中央公論, 227-228 ページ) からの引用である.文中の A~G に入れるべき適当な言葉を答えよ.

《A》ということ,それは,その資格も,B も,徳性も……持たない連中によって監視され, 検査され,スパイされ,指導され,立法され,規制され,囲いに入れられ,思想教育され, 説教され,統制され,見積もられ,C され,非難され,命令されることを意味する. 《A》ということは,あらゆる活動,あらゆる取引,あらゆる動きにおいて, 記録され,登録され,調査され,課税され,印紙を貼られ,測定され,D され,賦課され, 免許され,認可され,許可され,注記され,説諭され,差し止められ,矯正され,懲戒され, 折檻されることなのである. それは,E という口実のもとに,また一般的利益の名において利用され, 訓練され,身代金を強要され,搾取され,独占され,ゆすり取られ,絞り取られ, かつがれ,盗まれることであり,さらに,少しでも抵抗すれば,また不平を訴えるやいなや, 抑圧され,F させられ,けなされ,いじめられ,追跡され,こづきまわされ,棍棒でなぐられ, 武器を取り上げられ,首を締められ,投獄され,銃殺され霰弾を射たれ,裁かれ,有罪を宣告され,流刑にされ, 犠牲に供され,売られ,裏切られ,そしてあげくの果てには,物笑いにされ,嘲弄され,凌辱され,名誉を傷つけられることなのである.それが G であり,G の正義であり,G の倫理なのだ!

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【2006/10/13 17:53 】
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社会選択における極大要素

極大要素の存在: 美人ホールを求めて」では個人選択理論,つまり個人の最大化問題をあつかった.そこでは選好 P が任意の有限集合上で極大要素をもつための必要十分条件は P が非循環的 (サイクルをもたない) であることをしめした.今回は社会選択理論,つまり (「つまり」というとかなり乱暴だが) 「集団の最大化問題」をあつかう.本質的なアイディアはこうだ: 個人の選好のかわりに「社会の選好」なるものを考えて,あとはそれを個人選択理論に当てはめるだけ.(「社会の選好」を考えること自体がむずかしいのではないかという疑問はあるだろう.それが簡単には決められないというのは,たしかに社会選択理論の基本だ.しかしここでは「社会の選好」なる言葉をかなり弱い意味で使っているので心配ない.)

任意の選択肢の集合 X を考える.ただし X は最低 3 つの要素を持つとする (有限でなくてもいい).任意の個人の集合を N と書く (N は有限でなくてもいい).それぞれの個人 i は選好 Pi を持っている.個人レベルで最大化問題が解けないようでは集団レベルではますます解けるみこみがなくなるので,個人の選好 Pi は非循環的だと仮定する.(つまり,任意の選択肢 x1, x2, ..., xk について,もし x1Pix2, x2Pix3, ..., xk-1Pixk ならば,not xkPix1 となると仮定する.) 全員の選好のデータをまとめたもの (だれがどの選好をもつかを記述したリスト (Pi)i∈N) を《選好プロファイル》ということがある.

では「社会の選好」とはなにか? まず注意を与えれば,じつはそういう言葉で呼ばれることはあまりない.すぐサイクルを持ったりするため,「選好」と呼ぶにはあまりに振る舞いがダメなのだ.ただ選択肢 x が選択肢 y より社会の「多数」に好まれているとき「x は y を支配する」という言い方はするので,ここでは《社会選好》とか《支配関係》とかいう言葉を使うことにする.大雑把に言えば「社会の選好」とは「多数派」の選好である.もちろん「多数派」の意味を明確にしなければならないが,その意味はかなり自由に決められる.以下で《提携》S とは単に個人の集合のことである (つまり S は N の部分集合; 引用した記事では S は選択肢の集合だったため紛らわしくなっている,ごめん).

  • たとえば全体の個人の数が奇数人ならば通常の過半数あれば「多数派」と言えるだろう.たとえばぜんぶで 9 人いるならば,過半数とは 5 人以上のことである.ぜんぶで 3 人,つまり N={1, 2, 3} ならば,過半数とは 2 人以上であり,過半数の提携のあつまりは {{1, 2}, {1, 3}, {2, 3}, {1, 2, 3}} ということになる.
  • 過半数のかわりに「全体の 3 分の 2 以上」などとすることもできる.憲法改正の手続きなどを思い浮かべるといいだろう.
  • 極端なものだと,ある特定の個人がふくまれる提携すべてを「多数派」と考えることもできる.たとえば N={1, 2, 3} のとき,個人 1 をふくむ提携からなるあつまり {{1}, {1, 2}, {1, 3}, {1, 2, 3}} は《独裁ルール》を定義する.

一般的には,任意の提携のあつまり ω をもって《シンプル・ゲーム》(simple game) あるいは《単純ゲーム》と呼び,ω に属する提携を「多数派」とみなすことにする.(ただし空集合は ω にふくまれないと仮定.) 提携 S がωの要素であるとき (つまり S∈ω),S は《勝利提携》(winning coalition) と呼ばれる.

「多数派が選択肢 x を選択肢 y より好む」「社会が x を y より選好する」「x は y を支配する」というのは,けっきょく x を y より好む個人が多数いることであり,正式には以下が満たされることだ: ある勝利提携 S∈ω が存在して,すべての i∈S について xPiy となる.つまり x を y より好むひとびとの全員あるいは一部が「多数派」となっていることだ.この条件がみたされたときに xPy と書くことにしよう. すると P こそが《支配関係》あるいは《社会選好》である.

あとは個人選択理論と同じだ.A をアジェンダ (任意の有限非空な選択肢集合) としよう.社会選好 P についての A の極大要素の集合 {x∈A: yPx となるような選択肢 y∈A は存在しない} (A のなかで他の選択肢に支配されないような選択肢の集合) を考えればいい.つまり A の要素 x が極大要素であるとは,A の要素 y をどう選んだところで,y を x よりも好ようなひとびとが多数を形成することはないことである.A=X のとき,極大要素の集合は《コア》(core) と呼ばれる.つまりコアとは,社会にとっての「ベスト」な選択肢の集合と考えられる.

一般均衡理論や協力ゲーム理論で「コア」の概念を勉強したひとも多いだろう.そのため混乱するひとは,悩むのはやめてとりあえずこの記事の「コア」はべつものと考えてくれていい.

極大要素の存在: 美人ホールを求めて」で,選好 P が任意の有限集合上で極大要素をもつための必要十分条件は P が非循環的 (サイクルをもたない) であるという定理をしめした.その定理を適用すると,社会選好 P が非循環的であることが社会としての「ベスト」な選択肢の存在のための必要十分条件であることがわかる.これが結論だ!

では,社会選好 P は非循環的になるのだろうか? それはばあいによる.選好プロファイル次第だ.

  • たとえば全員が同じ (非循環的な) 選好を持っていれば社会選好も同じになるはずだ.よって極大要素は存在する.
  • 社会選好がサイクルをもつ例は「投票のパラドックス」として知られている (そのような選好プロファイルの例を挙げるのは演習問題).このときは極大要素は存在しない.

投票ルール (ここではシンプルゲーム) はひとびとの選好が明らかになる前に設計しておくべきというのが建前だろう.ひとびとの選好によって極大要素が存在したりしなかったりということでは「安定性」の面から不満が残る.では,つねに極大要素が存在するような条件はあるのか? それに答えた「中村の定理」については,いずれ別記事で解説したい.

ところで個人の集合が無限のときはどうするか? 「提携」とは個人の集合であって,しかもその集合がうまく記述できるような (あるいは観察できるような,あるいは認識できるような,あるいは意味あるような) ものだと考えられる.N の任意の部分集合 S を提携とみなすことも可能だがあまり標準的ではない.

たとえば,N における S の「確率」がじゅうぶん大きいときに S を「多数」とみなそうとしても,そもそも「確率」が定義できないかもしれない.じっさい無限標本空間での確率論では,うまく確率を定義できるような集合 (事象) を制限している.通常は事象はσ集合体 (σ-algebra) を形成していると仮定され,たとえば任意の事象の補集合も事象になること,任意の加算個の事象の和集合も事象になることが要求される.しかし無限個の事象の和集合が事象になることを要求するのは,それが解釈上自然であるからではない.主として数学的なあつかいの良さのために要求されている.有限個の事象の和集合が事象になるという要求ならばより自然だろう.

可能ならば「《提携》は《ブール代数》を形成する」とだけ仮定するのが望ましい.どういうことかといえば,N 自体が提携であること,任意の提携 S の補集合 Scが提携になること,任意の提携 S, S' の和集合 S∪S' と積集合 S∩S' が提携になることを要求するのだ.つまりある提携が記述できるならば,そのメンバーでない個人からなる提携も記述できることなどを要求する.この結果,有限個の提携の和集合や積集合はやはり提携になる (2 個のばあいを繰り返し適用できる) 一方で,無限個の提携の和集合や積集合は必ずしも提携になるわけではない.

また,選好プロファイルにも条件を課すことになる.たとえば「x より y を好むような個人の集合」というのは記述できることを要請するのが自然だろう.したがって,任意の選択肢 x, y について,x より y を好むような個人の集合が提携になることを要求するのがいい.

後記.厳密さはほとんど犠牲にしていないけど,その分くどくなってしまった.

学期がはじまった.夏休みにやり残した仕事を終わらせねばと思うこのごろ.先日は庵治の海に行ったあと,屋島のトイザらスでの赤外線コントロールの「Q Steer(キューステア)」(タカラトミー製の「チョロQ」というミニカー) を買って来た.9月30日発売との情報をネット新聞で知り,電池込みで1000円弱という値段に感動したためだ.ミニカーを集める趣味はない.そういう趣味がありそうな同僚に見せたら,ひとりは (そういう趣味はない模様だったが) 値段には感動,鉄道オタクであるもうひとりは「興味ある」と言って,リモコンで操作していた.一二週間するとキャンパス内でチョロQを競わせている大学教員たちの姿が見られるで……いや,それはなかろう.

【2006/10/08 15:22 】
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