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科学研究費補助金のデメリット
科学研究費補助金のデメリット

追加キーワード: 科研費,文部科学省,日本学術振興会,メリット,問題点.

学長はわが大学からの科研費 (科学研究費補助金) 申請件数を増やしたいそうだ.補助金申請率の低い学部 (正確には大学院や各種センターをふくむ「部局」) を罰するそうである.予算のいちぶを年度当初には配分せずに,申請数を見て追加配分を決めるということのようだ.えっ? 申請件数? 採択率か採択数ではないのか? もちろん申請内容をまったく見ずにくじ引きで採択を決めるような分野ならば,申請数を多くした方が採択数も多くなる.学長の知っている分野ではそうなのであろう.しかし,すべての分野がそうであるわけではない.申請内容の良し悪しが多少は採択に影響するような分野もあるだろう.たしかに「特定の領域の予算の決定は申請件数によって文部省科学研究費の中から比例按分により決定されるので,申請の多い方が必然的に有利となる.戦略的にはなるべく多くの申請を出すべきである」との指摘はある (JSI Newsletter Vol. 7 No. 1 pp. 8-9).ことの是非はべつとして,「戦略的には」そうするのが賢いという指摘だ.そういう倫理上問題がある戦略を学長が強引にすすめるのはいかがなものか.という批判以前にすぐ気づくことがある.特定分野に集中的に申請するのとはわけがちがって,大学全体に申請を呼びかけるのは意味のある戦略ではないということだ.「特定の大学の予算の決定は申請件数によって文部省科学研究費の中から比例按分により決定される」わけではなかろうから.

「申請して採択されないのはかっこわるい」という発想は学長にはないようだ.(「申請して採択されないのはかっこわるい」とわれわれ一般教員が考えて自己ベストに近い申請をするだろうことを見越しての作戦ではないようだ.そこまで考えている様子はうかがえない.だいたい,「申請しなければならない」と押し付けられた瞬間に,「採択されなければかっこわるい」と思う教員は激減するだろうから,そういう甘い期待は抱かない方がよい.) むしろ挑戦することに意義があるという発想に近いくらいだ.単純明快でよいのだが,もっとマシなことに挑戦して欲しいところだ.

ちなみに文部科学省のべつの補助金申請にあたって ICU (国際基督教大学) 学長は言っている:
「全国の大学の中でも教育・研究において常にモデル的注目を集めている本学としては、採択されないような申請は避けなければならない。」(The ICU 第16号, 2005年, 9 ページ)
もちろん,「本来ならば、大学の教育・研究は大学の主体性において行われるべきで、[COE や GP] 採択目当ての競争であってはならないのだが」と断ったうえでの発言だ.つまり科研費に置き換えれば,

  1. そもそも科研費の採択などを目標にすべきでない;
  2. しかし申請するのであれば採択を目指すべきだ

ということになる.2 つめの掟さえ破ろうとしているわが学長のばあい,より根本的な 1つめの掟 (研究者の主体性において行われるべき) は思いもよらないだろう.わが大学の学長は健全な批判的精神の欠如した人間だということが分かる.批判精神が欠如していたところで,一研究者の信念としてはべつによいのだが,学長としては失格だろう.多様な研究者の主体性を認めていないところが問題なのだ.

ではなにを目標にすべきか.多様な研究者や多様な研究があるため一概に言うのはむずかしいにしても,

研究アウトプットの最大化 (質を高め量を増やす)

ということでほぼ括れるのではないか.このくらいまともな目標を掲げた上でならば,反対者を潰すのも学長の権限かもしれない (リマーク 1 参照).少なくとも「科研費の申請件数を増やす」という目標よりはマシだろう.「申請数自体は目標ではなくアウトプットを測るための指標である」という言い訳も考慮しよう.すると問題は,

  • (i) 科研費応募件数あるいは採択数は研究アウトプットを測る指標になるかどうか
  • (ii) 科研費は研究のプラスになるかどうか

だろう.おのおのの研究者は,自分の研究にプラスになるようならば,科研費採択を目指して応募すればいいだけの話だから.(もっとも自分の研究にプラスになると分かっていても信条に反するという理由で応募申請しない研究者も考えられる.それについてはセクション「研究者の信条も尊重すべきでは」を参照.)

リマーク 1. 個人的には研究やめて教育だけする教員がいてもいいと思う.また,単なるアウトプットではなく政策への影響といった「アウトカム」を重視する立場もあるかもしれない.しかしその立場は大学の目標とはいちおう区別できると考えた.

なお,科研費申請件数カウントとはべつに,研究アウトプット最大化に近いことを意図したと思われる施策が実施されようとしている.ただ,どの分野を参考にしたのか知らないが異常に対象期間が短く,過去3年分の研究アウトプットを毎年チェックするそうだ.つまらないアウトプットを出しても仕方ないので,私はすでに学長に注意を受ける (注意だけではないようだが) ことを覚悟している.(あるいはこのエッセイのような論文を紀要にでも載せるのも一興かもしれない.)

リマーク 2. もしどうしても申請しろというなら女子高生のパンティ写真を集める研究でも申請しようか.たとえば倫理学者の森岡正博『感じない男』をゲーム理論的に再解釈するのも無意味ではなかろう.そのための資料収集だ.雑誌などではなく,本物の女子高生を見て自分で感じることが大切だからだ.「性犯罪へのより効果的な対策への応用が考えられる」などと書くと下手すると採択される危険もあるかもしれない.

科研費応募件数あるいは採択数は研究アウトプットを測る指標になるか (問題 (i))

問題 (i) から考える.まず言えるのは,科学研究費補助金への応募も採択もアウトプット自体ではないこと,そして科研費獲得額もアウトプットにたいする受け取りではないことだ.この補助金は研究のためのインプット (経済学で言えばインプット自体というよりその購入費用のいちぶ) にすぎない.政府補助金を受けているという事実からは,その研究が優れているという議論はほとんどなりたたない.確かなことはその研究へのじゅうぶんな需要がないということであり,「需要がないから優れた基礎研究である」などとは言えないのは当然だ.一方,業績評価の観点からいえば,すぐにはアウトプットが得られないときにやむを得ず用いる中間的なアウトプットと考えられるばあいもある.しかしそれはあくまでも代替的・二次的資料と認識して利用すべきだ.もし具体的なジャーナル掲載記事などのアウトプット情報が手に入るならばそちらのみを使うべきだ.

科研費はアウトプットではないという当たり前の事実を指摘した上で問題 (i) の答を言えば,科研費はアウトプットを測る指標にはならないということになる.もし指標になるのならば,すべての研究アウトプットをカウントしなければならないはずだが,科研費はテーマを決めて申請するためアウトプットの一部しかカウントしない.また,すべてのアウトプットが一定期間に出るわけではないので,成果報告書に載せられるアウトプットは一部である.では,科研費応募あるいは採択数はアウトプット見積もりの下界を与えるか (少なくともどれだけのアウトプットがあるかを測ることはできるか) といえば,そんなこともない.採択された 1 件から論文が10本産出される場合もあれば1本も産出されないこともあるからだ.

かりに「科研費以外の補助金が存在せず,研究は科研費なしにはなしえない」と極端な仮定を置いたところで,「採択がなかったらアウトプットがゼロ,採択があったらアウトプットがゼロ以上」すなわち「ゼロアウトプットを脱するための必要条件は採択であり,そのための必要条件は応募である」ということくらいしか言えない.

もしかすると学長の目的は研究アウトプットの最大化でもないかもしれない.上記の「科研費以外の補助金が存在せず,研究は科研費なしにはなしえない」という極端な仮定を前提に,とにかくゼロアウトプットを脱出するための必要条件として申請を要求しているのかもしれない.その場合は,科研費申請あるいは採択がアウトプットの正しい指標になっていなくても構わないだろう.その一方で,前提がまちがっているのは私をふくめ多くの反例から明らかである.(むしろ科研費なしではなしえない研究というものがたいして存在しない分野もある.)

科研費は研究のプラスになるか (問題 (ii))

問題 (ii) を考えよう.まず自明なのは科研費は一部の研究者個人にとってなんらかのプラスになっていることである (ただし研究自体の推進にプラスになっているとは限らない).大学の圧力がなくても科研費を申請していた研究者が存在していたことからこのことは言える.なんのプラスにならないものにひとは応募はしないからだ.じっさい,国内外の旅費,共同研究の経費,高額の雑誌の購読費,専門知識の提供者や研究を手伝ってくれる大学院生への謝金を科学研究費補助金から賄っている大学教員は少なくない.研究にプラスになっているかどうかは別としても,研究者がひとりの人間として温泉旅行したり身の回りの雑用を学生に任せたりするためにはプラスになっていることが分かる.(ちなみに科研費とは別の文部科学省補助金での話だが,地域振興をひとつの目的とするわが地域マネジメント研究科の教員たちは国内外の温泉旅行を楽しんでいる.観光コースもできる経済学部にとっても,こういう用途は今後ますます重要になるだろう.受給資格はあるそうだが受給者にならなかった私は,今週当たり自費で温泉旅行にでも行こうと思っている.) ほかにも,厳格なジャーナルが存在しないような分野では,一定の研究能力をしめす材料になるのかもしれない.

同じ論法で行けば,科研費に応募しない研究者の存在から,科研費が研究者にとってプラスになっていない,したがって研究の推進にプラスになっていないことも言える.(研究の推進にプラスになるものは研究者にとってもプラスになると仮定.もちろん研究の推進にプラスにならなくても研究者にとってはプラスになるものもある.) しかし,この説明だけでは読者は満足できないだろう.また,科研費がプラスにならないというなら強引にでもプラスにしようと学長は考えるだろう.科研費がもらえなかったときの環境を人為的に悪化させることにより,相対的に科研費の魅力を増大してプラスにもってこようとするだろう.したがって,その画策にたいする研究者の反応も予測したいところだ.人為的なやり方には,たとえばマッチングファンド方式 (個人の科研費獲得額に応じて学内研究費を配分) や連帯責任方式 (特定学部全体の科研費申請あるいは獲得状況におうじて当該学部の予算を配分; 教員の個人研究費が大学ではなく各学部で決められて来た伝統を逆手に取って,学部内の対立を煽るやり方) が考えられる.より望ましいやり方はあとで提案するとして,まずは現状において科研費が研究にとって短期的にも (直近のアウトプットを生み出すという意味でも),長期的にも (科学の発展という大局的観点からも) マイナスになっている (あるいはプラスになっていない) 理由を列挙する.

まず,科研費が短期的に多くの教員にとって研究のプラスになっていないことは,すでに述べたように科研費に応募しない研究者の存在から分かる (いわゆる文系学部の多くの教員).読者の知りたいのは,なぜ応募するほどの魅力がないと彼らが考えるかだろう.魅力がない理由を列挙しよう:

  • たいして自由に使えない.事実上年度をまたぐ繰り越しができないなど制約が多い.柔軟な使い方をしようとすると,いちいち事務と対立しなければならない.
  • たいした額 (後述) が必要でもないのにわざわざ申請するのは面倒.事務に余計な労力を払わせる必要性を感じない. (経済学でいえば浪費にあたる.優れた研究を選別するための必要悪と考えることはできるが,そのときでも実際に優れた研究をできる研究者だけが申請する自己選抜方式が無駄が少ない.)
  • 何ヶ月も前から研究計画を立てなければならない.たとえば私が以前ヨーロッパの研究者と共著論文を書いたときは,はじめてコンタクトがあってから一度も会うことなく数ヶ月で完了した.このように突然飛び込んで来る研究には使えない.
  • 分野によっては旅費くらいしか使い道がない.旅行するには体調を整える必要があるので,腰を痛めていたり IBS (過敏性腸症候群) や多汗症などで苦しんでいる人間にはあまり魅力がない.
  • 同じアウトプットを出すならば,補助金は少ないほどよい.(研究者個人の視点を離れたうえでの見方.)
  • 補助金をもらうならば,強制的徴収にもとづく税金からではなく市場を通じた獲得と自発的寄付にもとづく民間財団からもらいたい.(研究者への政府補助金と課税の両方をやめてもらえば話は簡単だ.) このことから分かるように,文部科学省という一政府機関による補助金に限定する学長の方針はあまりにも恣意的.
  • 科研費で申請した研究が科研費なしで完成してしまうことにより「不必要な申請をした」と非難を浴びたり刑務所に入らなければならなくなるのはごめんだ.(そんなことはないはずなのだが,最近はありえない事柄について「不正」とレッテルを貼られ世論の非難を浴びたうえで犯罪人にされるような事件が多すぎる.わが大学のコンプライアンス・ガイドラインが社会から批判を受けるような行動を行わないと断言しているのも不安だ.) ある研究のために補助金をもらうには,(a) その補助金があればその研究ができることと,(b) その補助金がなかったらその研究ができないことが望ましい条件になるだろう.経済理論のばあいを見ると,実際には (b) は破られていることが多い.研究費がなくてもできたと一目で分かるような研究が成果として報告されているのだ.(ちなみにこの理由により,研究費の有効性を示す統計はほとんど信頼できないものになっている.) 研究費によってその論文の発表のための旅費が賄われたということなら分かるが,その論文が成果としてできたというのはウソだろう.(ただし,論文作成のために講演収入を諦めなければならなかったといった機会費用まで補助金がカバーしているというならウソとは言えないかもしれない.)
  • 科研費を獲得したところで,その成果として報告できるほどの因果関係をみとめられる研究がない.直前の項目の経済理論のばあいのように,特定の研究アウトプットが補助金の獲得によって可能になったという因果関係を証明するのはむずかしいことがある.ばあいによっては研究費の獲得がひとつの要因になったことをしめすことさえ困難である (じっさいのところ要因ではないのだから).そのようなアウトプットを研究成果として報告するのは「不正」とされるおそれがあるので,慎重で良心的な研究者はそれを報告書に含められない.科研費審査では過去の実績も考慮されるので,補助金による成果がなければ次回以降の申請が不利に扱われ,将来的にはいずれにせよ補助金を受けられなくなる可能性が高い.
  • 政府の補助金に頼ると,研究の独立性や自由を保てなくなる.(研究内容と連動しない補助金ならばその危険性は低いだろうが.) 特に政策研究をはじめとする社会科学が政府からの独立性を保とうとするのは常識.The Cato Institute などの有力シンクタンクは政府補助金の受取を拒否している.科研費は名目上は政府主導の研究とちがって,「研究者の自由な発想に基づく研究」をイニシアチブにしているそうだ (笑).個人としての研究者に交付されるとしつつ,文部科学省が指定した研究機関(科研費研究機関)に所属していないと応募もできないのに! ほんとうに自由な発想に基づく研究を申請したら,「公序良俗に反する」とさえ言われずに黙殺されるだけだろう.だいたい自由な発想を尊重するなら,提出書類のあの醜い不自由なデザインにしたがうことを申請者に要求したりするはずがない.

次に,科研費が長期的にも (科学の発展という大局的観点からも) 研究のマイナスになっている理由を挙げる:

  • 科学研究をわい曲している.たとえば純粋な経済理論の研究なのに,環境問題や社会問題に無理に絡めた申請を促している.わずかでも関係あれば政府好みのキーワードを無理矢理応募書類にちりばめるといった,陳腐で不正確な言葉の使用を助長し,学問を混乱させている.新月位「我々の学界における学者たちの言語に対する鈍感さはひどいもので,適切でない用語でも流行っているからって,ちょっとでも関係していそうだと平気で使ってしまう」(金子守「ゲーム理論における合理性と限定合理性」『ゲーム理論のフロンティア』2005).ちょっと関係していそうだったんで平気で引用.
  • 個々の学界の自律的発展を阻害し,学問的文化や研究者の美意識を破壊している.たとえば学界の伝統とは無関係の,役所式の勝手な,品のない,醜い,不必要な線に満ちた申請書式を用いている.見るだけで吐き気がするほど気分が悪くなる書式だから,提出書類が美しくないことが最大の理由で申請しない研究者は多いはずだ.

望ましい研究費配分方法

では,どのような研究費配分方式が研究アウトプット最大化の観点から望ましいか? データがなければ正確なところは分からないが,直感的には学内研究費の配分は《均一利得ルール》(Uniform Gains Method) でいいと思われる.これは各自に必要額を申告してもらい,全員に一定額を配分することを原則とする.ただし,ひとりひとりにはその申告額を超えない範囲で配分する (申告額と一定値のうち小さい額を配分).たとえば 250万円を5人に配分するとして,それぞれが20万,30万,40万,100万,200万円を要求しているとすると,実際の配分額は同じ順に 20万,30万,40万,80万,80万円となる (原則 80 万円,ただし申告額を上限).学内研究費が申告した必要額に満たなかった二人は科学研究費補助金のような外部資金に応募すればいい.仮に学内研究費をマッチングファンド方式で科研費の獲得額に比例させるとすると,配分額の格差は均一利得ルールの配分のばあいよりも,そして (おそらく20万,30万ていどのひとは前セクションに挙げた様々な理由のため応募しないだろうから) 必要額への比例配分よりも広がるだろう.また,高額を必要としたひとはうまく申請が採択されればラッキーだが,そうでなければ獲得額ゼロとなって,リスクは大きくなる.つまり,均一利得ルールは,低額を必要とするひとだけでなく高額を必要とするひとにも支持される可能性が高い.

研究アウトプットは科研費とはべつに把握すればよい.これについてはわが大学ではすでにプランができている.(分野の違いを無視して一定の期間を対象とするやり方は,経済学にかんしては優れた研究を減らすだろうが.)

この方式にかんして思いつくことをいくつか列挙する:

  • 必要額を水増しして申告する可能性は他のルールに比べて低い.必要額がはっきりしているばあい,この方式だと水増しする必要はない.たとえば比例配分ではそうはいかない.
  • 現実にはどの程度の研究費を必要とするだろうか.多くの研究者にとって,研究費は多いほどよいというわけではない.たとえば新しい機器を買えば,それを使えるようになるための時間を失うので.経済学部での経験で言えば,20万円から60万円くらいのひとは多いのではないか.申し込めば必ず当たるような「競争的資金」の募集を学科内で行っても応募がないことがあった.竹内淳「公的研究費(科研費)配分の問題点Q&A」によれば,私立大学の研究者が科研費1件申請したときの期待値は77万円である.この額でも申請を諦める研究者は多い (私立大学の申請件数の少なさに反映している).つまり(ある程度の額への追加的 77 万円とゼロからの77万円では正確にはちがうのだが) 必要額が 20 万から60万円ていどのひとは外部資金を申請しない可能性が高い.無理に申請させるのは労力の浪費である.要するに少々の研究費を奪って無駄な労力を浪費させるか,少々の研究費を与えて独創的な研究を育てるかのちがいがある.
  • 外部資金の獲得にかかわらず継続することが重要な研究費はある.ジャーナルの購読などはそれに当たるだろう.去年閲覧できた電子ジャーナルが今年は閲覧できなくなったので来年になって閲覧できるようになるのを期待するというようでは遅れをとってしまう.ばあいによっては,仮に来年購読が再開しても今年の分が空くということもあるかもしれない.
  • 科研費を申請しない研究者には,科研費の申請と管理にかかわる事務的手続きのコストを軽減している分を返すべきだろう.均一利得ルールはその点からも望ましそうだ.

研究者の信条も尊重すべきでは

研究アウトプットの最大化では捉えきれない,研究者個人の信条の問題がある.科研費には倫理上の深刻な問題がある.倫理的にこれだけ問題のある補助金への申請を一律に義務づけるのは,社会規範へのコンプライアンス上問題だろう.

  • 政府の補助金に頼ることは健全な民間人にとって Stigma,汚点,不名誉,忌み嫌うべきことであろう.政府の補助金や支援を拒絶する中小企業の経営者のプライドを見れば,それがどのようなものかはある程度想像できる.国立大学法人に籍を置いている教員のばあい,大事なことは研究内容がそれによって左右されるような資金に頼らないということかもしれない.科研費はその点から汚点となる可能性が高い.均一利得ルールは研究内容を左右しにくいルールだろう.
  • 科研費は民間の研究者を研究能力とは無関係な理由で差別・排除している.「応募・申請ができる研究者は、文部科学省が指定した研究機関(科研費研究機関)に所属している者」となっている (科研費ハンドブック-より良く使っていただくために-(研究機関用)).
  • 科研費は戸籍名を強制して来た人権侵害の過去がある.戸籍名と異なる名前による申請は門前払いだったらしい.研究費申請の名前が研究発表するときの名前と一致しないのは控えめにいっても妙な話だ.当事者にとっては妙な話というにとどまらず,研究者としての個人の尊厳にかかわる問題のはずだ.多くの女性が被害に合って来た.
  • もろもろな理由で科学研究費を希望しない研究者を勝手に科学研究費補助金研究者名簿に載せ,研究者番号を割り振ってきた (大学にそうさせてきた) 人権侵害がある.私もその被害にあっている.(当分応募する予定はないので,現在は名簿から削除してもらい,番号も抹消してもらっている.しかし学長は科研費申請率の低い学部を罰する文脈で「科研費研究者番号を持っていない教員は研究者ではない」と発言している.単なる発言なら個人の自由だが,フェミニストならこういうのを「セカンドレイプ」と呼ぶだろうな.) 過去には,戸籍名を要求することによって申請を事実上排除している者にまで勝手に研究者番号を割り当てていた.

関連サイト

科研費自体のデメリットを直接扱ったサイトはほとんど見つけられなかった.

(HRM 投稿; 初版 2006 年3月27日; 3月28日修正; 6月29日修正)

2006年3月28日.セクション「科研費は研究のプラスになるか (問題 (ii))」に「科研費を獲得したところで,その成果として報告できるほどの因果関係をみとめられる研究がない」の項目を追加.

2006年6月29日「私が手を染めた科研費不正支出」をリンクに追加.記念のトラックバックに失敗したみたいなので.Thanks a lot but take it easy!

2006 年10月13日.大学事務から科学省の文書「研究資金制度の運用上の問題点に関するアンケートのお願い」を RICOH Imagio Neo によるスキャン画像 pdf で受け取った.「いちいち調査しないと分からないのか?」とか,「単にひっかけが目的じゃないのか?」と思うひとも多いだろう.だが好意的な私は,バカなりに頑張った官僚たちをとりあえず評価しよう.末端・現場で起きていることをうまく把握することは,バカな官僚にかぎらず簡単ではないからだ.しかし,なんでリンク満載の文書をスキャン画像で送って来るんだ.やはりバカは治らないのか.以下は大学事務への返事:

あんたね,どういうつもりなんだ.これはスキャン画像だろ? テキストも選べなければ,リンクも効かないじゃないか.そもそも「ウェブサイトでの掲載情報」と冒頭にあるのだから,その URL を引用すれば済むはずだ.文中の長い URL を手入力してその前後のページを調べた結果,以下が該当文書であることがわかった.面倒なことさせるなよ.
[上記文書の URL]

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【2006/03/28 17:33 】
| 大学 | コメント(4) | トラックバック(1) |
卒業式,研究室,女子学生,袴姿,猥談

卒業式のシーズンだ.11年前に大学に就職して以来はじめて,卒業式当日に元ゼミ生の訪問なるものを受けた.当日朝,スパムに分類されたメールの中に

明日学校来るでしょー?
ひとみちゃんの袴姿見れますよ!

とあったのだ.ひとみちゃん以外の女子学生からのメールであることがあとで判明したんだが,なかなかうまいじゃないか.普通にメールしても「そりゃおめでとう.運がよかったんだな.卒業させろと頼んだ覚えはないけど,卒業できてしまったなら仕方ないな.仕事は大学ほど甘くないから覚悟しろよ」くらいの返事をもらえるくらいだろう.しかし,普段とちがうひとみちゃんを見れるかと思うと,つい「たまには大学に行ってみようか」という気になってしまったのである.

卒業式のシーズンともなれば,お世話になったゼミ教員と涙でお別れといった光景もあるらしい.「おいおい,キミたちは涙を流せるほど学生時代真剣に生きたのか?」「いったいどうお世話になったんだ?」などとバカバカしい気分で盛り上がる季節である.思えば2004年に開講したこの 3 年生ゼミは経済学部での最後のゼミだった.そのゼミの受講者7人全員が卒業できたというのは奇跡的なことだ.奇跡だからこうしてはじめてゼミ生全員 (正確にはすでに夏に卒業した学生を除く) の訪問を受けるのも無意味ではないだろう.

それにしても今まで11年間こういうことがなかったのは,なぜだろう? 単にボクが面倒くさがって卒業式当日大学に来なかったから (それ以前に4年生ゼミを最後まで実質的に受け持ったことがなかったな) かと思ったが,調べてみるとそうでもなさそうだ.2003年度の学部ゼミ生一名は次の年の前期に卒業したので3月の卒業式にはたぶん出ていない.2002年度のゼミ生3名はいずれも卒業できていない.それ以前の 1999年のゼミ生 3+1 名が卒業する時期にはボクは日本にいなかった.それより前はゼミを受け持っていなかった.以上である.どうやら主としてタイミングの問題により卒業式には縁がなかったようだ.

「12時までには研究室に行く」と返事して,12時ぎりぎりに研究室に入ったらすぐ電話がかかってきた.あとでみんなで行くから待機せよとのこと.待機していたら突然ドアが開いて6人がどっと入って来た.たしかに女子学生二人は袴姿である.できるだけ多くの知り合いに見せて元を取ろうとしているのだろう.それにしてもいつの時代から大学の卒業式は袴姿でってことになったんだ? バブルの時代だろうか? などと考えつつ,「けっこうかわいいじゃん」とメールくれた子に近づいたくらいで特に感想を述べることはしなかった.その昔,こいびとと花火を見に行ったとき,「浴衣似合ってない.ほかの女の子のほうがかわいい」とさかんにまくしたててその子を怒らせ,帰りはべつべつになってしまったことがある.袴姿では興奮しない.不用意なことは言わない方が身のためだろう.ただ,髪につけたお花には弱い自分だ.ある女性を思い出すからだろうか.

ボクらは過去を語ることはなかった.学生たちはこれからの仕事を語り,そして相変わらず猥談を楽しんでいた.「夜はドレスに着替える」とひとみちゃんが言うと,そんなことまでエッチな話に繋げたりしていた.ああ,なんという進歩のない連中だ.早くそのレベルは卒業したまえ.あと,ひとみちゃんのドレス姿の写真もよろしく.

【2006/03/25 22:04 】
| 女子学生とつづる純愛アルバム | コメント(12) | トラックバック(0) |
北海道千嶋国紗那郡紗那村にいた先祖

「この北海道の地名って千鳥岡って読むのか? その次のは沙那か? どのあたりなんだ?」

判読するのがむずかしそうに思えたが,その文字が千島国紗那郡紗那村 (しゃな) を表していることはすぐ分かった.ボクの祖母キヨの出生地らしい.少なくとも確実に言えるのは,その祖母の母親 (池田) スシが北海道千嶋国紗那郡紗那村74番地を本籍地としていた池田甚吾とテイの長女であるということだ.どういうところか知らないひとは,ウィキペディアで,「千島国」「紗那郡」「紗那村」を調べるといい.(わざわざ調べるひとがいるだろうか? ぜったいにいると確信している.) 北海道庁のサイトにも以下の記述がある:

  • 1880年(明治13年)には、新しい行政組織のもと、色丹、国後、択捉の3島に村役場が置かれました。
  • 明治20年代には、中心産業が狩猟から漁業へと移り、サケ、マス、かになどの北洋漁業へと、発展していきました。
  • また、国後、択捉両島にも道路網が整備され、郵便局、駅逓も置かれました。さらに、島と北海道を結ぶ定期航路が開設され、電信も開通するなど、島民生活の安定が図られました。

さらに別の記述では,四島では明治 8 年頃から私塾ができ,同 13 年には国後島泊村と択捉島紗那に小学校が設けられ,択捉島には1897年 (明治30年) に「紗那支庁」が設けられたそうだ.支庁ができた3年後の 1900 年に紗那で生まれたのが祖母キヨだ.祖母は国後島 (クナシリ) ではなくて択捉島 (エトロフ) 出身だったようだ.いったい択捉島で何人目の赤ちゃんだったんだろう?

この話は今週,三豊市役所で取って来た先祖の除籍謄本のことだ.道路も狭くて「市」だなんてとうてい思えない牧歌的なその町は,明治以来たいして風景も変わっていないはずだ.だが,最初に請求した謄本は「もう80年以上経っていますから,廃棄されたようです」とのこと.「この土地も明治時代は済んだのだな」と感じた瞬間だ.しかし,いくら廃棄していいという法律があるからといって,普通はそう簡単には廃棄していないはずだ.とりあえず他の二人分の除籍謄本を取った.ちゃんと明治初期のも出て来るじゃないか.(明治時代のデータまで電子化 [画像だけど] が済んでいるのは,仕事の少ない田舎の強みか?) もう一度最初のを請求したら,本籍地変更で番地が見にくい状態だった謄本を発見してくれた.択捉生まれと思われる祖母キヨの出生時の本籍は香川県三豊郡詫間村大字詫間の安藤家 (詫間は安藤さんだらけの感じがする) で,曾祖母スシもその直前にそこに入籍していた.

そう,ボクの先祖はまぎれもなく北方領土にいたのだ.そういえば祖父は満州国の奉天 (いまの瀋陽) のヤマトホテルで働いていたことがある.むかしのひとは新領土 (新天地?) が好きだったのだろうか.ボクも北方領土とたいして冬の厳しさの変わらないかもしれないミネソタにいたことがある.ボクの家系は新領土が好きということかも.ただ,祖先が行ったところは事実上日本ではなくなってしまったが,ボクが行ったところはもともと日本ではなかった.

覚え書きとして,戸籍から分かることやいくつかの疑問を列挙しておく.詳しい方のコメントを歓迎する.

  • 1900年当時,択捉に住む日本人はまだ少なかった.なんで祖母の父安藤清太郎は長男なのに択捉に行ったのか (もし行ったとしたら).(択捉に行くようなひとは農業よりも水産業を考えていたのだろうから,長男であっても行ったのかな.) 択捉に移住者が多いなど,詫間と択捉は関係があったのか.
  • 安藤清太郎と (池田) スシの婚姻と祖母キヨの出生は同じ日.ただし,出生届けは数日後.これらはどこの役所に届けたのか? スシの婚姻については,香川の安藤家の戸籍に「婚姻届出同日受附入籍」とあって「発送」とはないから香川で届けたのだろうか? それとも婚姻のときは「発送」とは書かないのか? 一方で,数日後の出生届では同じ戸籍謄本に「明治参拾参年六月拾壱日出生届出同日北海道千嶋国紗那郡紗那村外二ヶ村戸籍吏岩波常量 (岩波常素?) 受附同日届書発送同年七月拾?日受附」とある.択捉で届け出たのだろう.
  • 婚姻と子供の出生が同じ日であることに特別な理由はあるか.当時,ひとびとが戸籍の変更をいちいち届けるインセンティブはあったのか.本当の居住地を届けていたのか.
  • 清太郎は婚姻後一年半後の 1902 年に死亡.キヨは安藤家以外の家の養子になった.その後スシは安藤家から除籍になって択捉に籍を戻している.だとするとやはりキヨは清太郎の実の娘ではなかったのかもしれない.

追加キーワード: 家系図,先祖調査,ルーツ.

関連記事「択捉の前,日本橋の前はどこ?」も参照.

【2006/03/16 10:38 】
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他県とほぼ同じ問題ばかりを入試に出題してしまった清水東高校

べつに悪くないぞ.大学院入試なんか,科目によっては大部分の問題が (同じ大学院研究科の) 数年前のと同じなんてことはざら.

共同通信の記事によると,理系のすべての問題が他県の入試問題とほぼ同じか類似性が高かったらしい.全部で 5 問あるうち 1 問が福島県立高校の過去問題と酷似,1 問が2003年の法政二高(神奈川県)の問題とほぼ同じ,その他の問題も岐阜県の公立高校や熊本県の公立高校,愛媛県の私立高校などの過去の入試問題と図や設問が類似していたという.これらの問題を作成した教諭は市販の過去問題集を使ったとのこと.

じゅうぶん分散してるじゃないか.問題なし.こんなんで有名になれるなら,「うちの大学を取材しに来たら!」と言いたくなる.

追記.本文以上の説明は必要ないと思ったのだが,以前ネタにし損ねたある新聞記事を思い出したので追加する. 高校入試の理系問題なんてのはとても範囲が限られている.独自の問題を出すこともできなくはないだろうが,そうすると奇問だとか難問だとか言われるのがオチではないか.奇問難問と言われるのを避けるために丁寧に状況を説明したりすると,今度は「問題文が長すぎる」と言われるだろう.その上,理科の問題は数字をちょっと変えるだけでもあり得ない状況になってしまうのも悩ましい.だいぶ前の産経の記事にも「私立中入試算数 問題文に問題あり あり得ぬ設定多数 濃度30%食塩水 一晩で半減する生物」なんてのがあった.

ありえない状況ならまだマシだが,問題によってはちょっと数字を変えただけで同じ解き方が使えなくなって,難易度がぐっと上がったりするのでやっかいだ.しかもそのことに出題者が気づいていないこともある.たとえば経済理論でいえば予算制約下での効用最大化なんかがそうだ.もともと xy と表されていた効用関数を (x+1) y に変えただけで,ある機械的な解き方は使えなくなってしまう.しかし公務員試験対策問題集なんかは,その事実に気づかずに誤った解答を載せているものが多い.

追記 (11/9/06). さいきん「大学入試過去問活用宣言」なるものが発表された.これで入学試験における過去問の利用そのものは悪くないことは理解できたと思う.清水東高校の関係者は「謝ってはならないことを謝る醜い日本人」の一例だったことはほぼ明らかだろう.謝ってはならないことを謝ったことを謝ってもらいたいものだ.

ただ,「活用宣言」の中身はまだまだ遠慮がちというか,不可解なものだ.つまらない先延ばしをしている (「入試過去問題活用は平成20年度入試(平成20年2-3月実施)から開始します」) だけでなく,「入試過去問題活用宣言への参加は、入試要項などで事前に公表し、使用過去問題については、入試終了後、原問題作成大学に通知すると同時に、受験生に分かるような形で公表します」といった親切すぎる方針までふくまれている.(そういう方針を打ち出すことによって,まるでその宣言に参加しない大学は過去問を使えないような誤解を作り出したいのだろう.そうすることで,参加校を増やそうという魂胆にちがいない.) 入試問題なんて公共財だよ.財産権のようなものを主張するものじゃあない.宣言不参加校も自由に過去問を利用していいということこそを宣言すべきだった.

そもそもやることが中途半端すぎる.過去問の利用なんてのは現状の追認にすぎない.そんなことよりも,入学試験を共同で実施するといった,もうちょっと新しいことを宣言してもらいたかった.同じ問題を使って複数の大学で同時に入学試験をやり,それらどの大学で受験してもいいことにすればいい.その方が受験生の移動も少なくて済むはずだ.

【2006/03/07 20:05 】
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