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宮崎大学医学部教授会の表現弾圧にかんする覚え書き

宮崎大学医学部教授会の情けない逸脱への怒りが収まらない.大学が大学の責務を忘れて学生の表現行為に停学処分を下した,破廉恥な言論弾圧事件のことだ.「うさぎ狩り部」を名のる学生たちがウサギの解体写真をネット上に掲載して「世間をお騒がせしたこと」にたいする,医学部としてのお詫びということらしい.

事件の本質

今回の事件は,大衆の「集団的サディズム・集団的狂気」に宮崎大学医学部教授陣が屈したのが本質だ.その大衆とは,医師予備軍のなかのある部族の独特な (ウサギの) 死体の弔い方をとやかく批判した者たちだ.諭せば済むところを,教授陣まで大衆といっしょになって医学部低学年の未熟な学生をウサギいじめのように痛めつけたのは,医学の先輩としてふさわしい態度ではない.

「倫理」は強要するものではない.「処分」という形で強要した時点で,お前たちは「倫理」を語る資格を失う.

信条の自由と表現の自由を守らなかった一点だけでも,大学側が100パーセント悪いと断言できる.それらを否定してしまっては大学の存在価値がなくなる.学生たちの行為を「本学の教育理念・教育目標から著しく逸脱したもの」とする宮崎大学の教育理念とは,表現の自由をそんなにも軽視するものなのか.

だいたい,「世間をお騒がせ」して何が悪い.それが悪いというお前たちの研究からは,なにも世間を騒がせるものは生まれないであろう.

もちろん大学には規則が存在する.そしてそのいちばん重要なものが,表現の自由や学問の自由だ.それこそは大学の根本的な原理である.「大学は表現の自由を尊重する」という大前提のもとで学生と大学は契約を交わしている.だから,その契約を破るような規則は無効だ.

表現の自由が個人の権利を奪うときどちらを優先すべきかについては,「少なくともこういう権利よりは優先すべきだ」というおおよその共通理解がある.今回は,他人の権利をなにも侵害していない表現 (しかも大学のサーバにも置いていない) や内面的な倫理観を大学が規制しようとしたから問題なのだ.医学生が倫理観の欠如を理由に処分されたのは「国公私大を通じて過去に聞いたことがない」と文部科学省も言ったそうだ.ほんとうに前代未聞の馬鹿げた契約違反を宮崎大学はやってしまったのだ.もはや宮崎大学は「大学」の名に値しない.単なるクズの集まりだ.

生あるいは死の冒涜か

学生たちがウサギを殺したかどうかは処分に関係なかった.クルマがぶつかった事故でウサギは死んだと調査委員会の報告書にある.ウサギの死体をどう扱ったか,その一点で処分は下された.

一般に,死体をどう扱ったかという行為を見るだけでは,その行為が死への冒涜かどうかは判断できない.「弔い」かどうかは内面的な問題なので,外から判断できると思う方がまちがいだ.そしていうまでもなく弔いの形態はいろいろある.

  • 大学に表現の自由を奪われて自殺した大学教員がいるとする.同僚の私がその死体をキャンパスに持ち込んで内蔵を切り刻み,バラバラにして試食会を開いたとする.(その死体の所有主でないから現実にはできないかもしれない.) この行為を「死への冒涜」と言うのだろうか.死者の遺志を受け継いで大学に対して無力なメッセージを発するこの弔いの儀式を,私は「冒涜」とは呼ばない.
  • 棺桶を太鼓のように叩いて楽しく冗談のように死体を扱うことを自分はやったことがある.それは私にとって「さようなら」を言うための儀式であり,死者への慰めであった.冗談でひとを葬るのも弔いの一形態である.
  • 死体への「礼意」というのは,最終的には故人あるいは遺族の思いに沿うやり方ということに収束するだろう.自分の信条に反しない限りで,できるだけ彼らの意思にしたがうことだと思う.たとえば死者に小便をかけてあの世へ送り出す部族では,あなたがそれをどう感じようと彼らにとってはそれは冒涜ではなくあの世へのはなむけである.だから,あなたも小便をかけてやるのが正しい弔い方だろう.もちろんあなたにも信条があるはずなので,その部族のやり方に完全にしたがわなければならないということではない.
  • 学生たちには,学生たちなりの弔い方があったはずである.彼ら自身が「冗談」と認識したそのやり方が,彼らの弔い方だったのだ.あるいはそれは「芸術」と言えるかもしれない.
  • 一匹のウサギの死にあれほどの意味を与える行為を「冒涜」とは言わない.神に捧げる生けにえを命の「冒涜」とは言わないのと同じだ.

仮に彼らが「弔い」としてやっていなかったとしても,それは内面的な問題 (外的な暴力ではない) だから,外的な力に訴えて変えさせることを正当化しない.彼らが倫理的でないと思うならば,「停学処分」という実力に訴えずに説得すべきだった.

「《解剖》と《解体》は別物だ」という議論も処分を正当化できない.言葉使いを誤ったことにたいする処分は停学ではありえない.せいぜい試験で落とされるくらいである.

そして言うまでもなく,ウサギは人間ではない.学生たちがウサギを解体したことと,彼らが人間の死体をどう扱うかとは何の関係もない.「医育機関としての責務として学生の再教育」をするという医学部の理屈を受け入れたとしても,再教育すべきことなどなにもない.

食べるためなら殺戮が許されるとしたら

仮にウサギは殺されていたとしよう.虐殺されたとしよう.なぜ,食べるためにウサギを殺戮するのは正当化されるのに,芸術のためにウサギを虐殺するのは正当化できないのか.食べるためなら許されるというのは,人間の生存のための殺戮なら正当化できるからか.つまり,生存という低いレベルの欲求を満たすためなら正当化できるというのか.芸術という高いレベルの欲求を満たすためには正当化できないのか.それはおかしい.ウサギを食べる行為は,生存レベルの問題ではない.かなり高いレベルの欲求である美食にかかわる問題だ.芸術とちがわないレベルであるはずだ.

おかしな批判者たち

わざわざアドレスを入れて,あるいはリンクをたどって,見ようとしなければ見えない場所にあるのだから,普通の意味の「公衆の面前」に置くこととは区別される.見なくて済むものをわざわざ自分の意思で見た上で,「気持ち悪い.冒涜だ! ネットに載せるな!」と文句を言っている連中はどういうサディストなんだ.

本物の職業倫理を

「献体してくれる者がいなくなるから」という短期的な理由で医師にたいする期待レベルを過剰に高めることは,結局は医学界全体,特に大学医学部の首を絞めることになる.期待を裏切られたときにこそひとびとは反応するからだ.今回,集団的サディズムに宮崎大学医学部教授会が屈したことによって,医師の資質と直接関係ない部分で社会一般の期待レベル (虚像) を過剰に高めてしまったことは,その意味においても失敗である.医師の資質と無関係な部分についてはもっと本音でやってもらいたい.

ウサギの死体をどう扱うかという,ほとんど好みの問題などよりも,医師としてきちんとすべきことはいろいろあるはずだ: 医学の最新動向を学んで技術を身につけること,時間を守ること,(酒に酔いやすい医者のばあい) 飲酒手術をしないこと,診察室で一日中煙草を吸わないこと,患者に嘘をつかないことといった.

不当な処分を受けた学生たちを救えないか

不当な処分を受けた学生たちを救いたい.だが私にはほとんど何もできない.悪いことに,学生が行動を起こして裁判で勝っても,彼らにとってたいしてメリットはないのかもしれない.しかし,今後似たようなケースで処分を下そうとする破廉恥大学 (合法的な表現行為を曖昧な学則で処分しようとする大学) にたいしていくらかの抑止力にはなる.そのことだけは言っておきたい.

追記.いろいろな考え方があるだろうから,ご自身の遺体を正常解剖のため宮崎大学に寄贈することを生前に約束している方々 (宮崎医科大学白菊会・宮崎大学白菊会の会員) に直ちに献体登録を取り消すことを呼びかけるものではない.ただ,献体登録も取り消さずに今回のような表現弾圧事件にたいして沈黙を保つことは,たとえそれが善意から出たものだとしても,かえって大学のありかたを狂わせ学問の進歩を阻害することになる.そのことを理解して上で対応を考えてもらいたい.

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【2005/12/25 18:26 】
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