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NEW レオマワールドの動物園に行ってきた.潰れてしまった旧レオマ時代もふくめて,レオマワールドに行ったのははじめてだ. ほとんど人影がないため閉鎖中と間違えそうな意味不明の人工湖のほとりを抜け,だれも乗っていない長い長いエスカレーターで上った丘の上の,そのまた奥にその動物園はあった.「オリエンタルトリップ」と呼ばれていたエキゾチックだった区画の跡地の「廃墟」のなかに動物を集めたもので,タイの古い寺院を移した遺跡 (の遺跡?) の奥にある. というか,この土地ぜんぶがバブルの時代の遺跡と言っていいだろう.手許の古い雑誌に「夢と冒険と感動のレオマワールド」とあるが,たしかにいまは破れてしまったあの時代の夢を感じるにはいい場所だ.経営学を学ぶ学生にはおすすめだ.まだ営業中であり「廃墟」と呼ぶには中途半端だが,廃墟マニアも喜ぶかも.土曜というのに従業員はチケット売り場をふくめて3人しか見かけなかったし,広い場内に客は15名もいなかったと思う.すべてのレストランは潰れていて,建物は荒れ放題だった.運営会社の地図では,わんわんゾーンやふれあいゾーンは入り口付近になっているが,じっさいはそれらも寺院の奥にあった.おそらく従業員を減らすために集中させたのだろう. しかし動物園としてはかならずしも悪くないかも.客がほとんどいないだけあって,順番待ちや時間を気にせずに犬とかウサギとかと触れ合うことができるから.ただし動物と触れ合うための場所に従業員がいるとは限らないから,従業員をみつけるのがたいへんかもしれない.ボクがウサギと触れ合ったあとも,それまでそこにいた飼育係と見られるお姉さんが 100 メートルほど離れた小屋に移動して,今度は飲み物の販売員をしてくれた (ビール2種類と清涼飲料水3種類だけ売っていたと思う).より直接には,エサの準備と次の触れ合いコーナーへのボクのリクエストに備えてその場所に移ったようだが. 「あれでどうやって採算取れるんだろう? ひょっとすると入口までのエスカレーターの維持費さえ稼げないかも?」などと余計な心配をしつつ帰って来た.調べてみるとどうやら動物の輸入販売とかリースとかをやってる会社が運営しているらしい.学生がいるのかどうかはしらないが,動物飼育スクールもやってるらしい.なるほどな.集客はなくてもやっていけるのかもなあ. |
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「囚人のジレンマ」については聞いたことがあるだろう.ゲーム理論ではもっとも有名なゲームだ (実際はあまり「ゲーム的状況」になっていないのだが).このブログでも「仲介者による囚人のジレンマ解決法」という記事であつかったことがある. 最近,自分で作った演習問題 (正誤問題) を見ていてふと気づいたことがある.
囚人のジレンマを反例としてあげてくれればその問題の正解にはなる.その問題の場合ほかにももっと簡単な反例はあるが,問題によっては囚人のジレンマくらいしか思いつかないものもあるだろう.そういう問題ではしばしば「囚人のジレンマ」と答えるだけでは不十分で,出題者は利得行列を要求することが多い.すると「囚人のジレンマの利得は暗記しないといけないのか? あの数字はどうやって思いつくんだ? 手品じゃないんだから種明かしくらいして欲しい」という学生が現れるかもしれない.「ゲーム理論家は賢いからそんな数字はすぐ思いつく.ゲーム理論をマスターできるような学生にとってもそんなことは十分簡単なはずだから,その数字をどうやって思いついたかなんてことはどのテキストにも載ってないよ」と突き放せばいいのかもしれない.じっさい,作り方なんて載せてるテキストを見た記憶がない.だが,そうすると本気で囚人のジレンマの利得表を丸暗記しようとする学生が出て来るかもしれない.それは教育的にはあまり望ましい状況とは言えないので,以下に作り方を解説してみる.
まず,(もっとも簡単な) 囚人のジレンマは2人ゲームで (プレーヤーは Player 1, Player 2 とする),プレーヤーはそれぞれ戦略を2個持つことくらいは覚えておこう (Player 1 の戦略は U, D で,Player 2 の戦略は L, R としておく).そうすると戦略の組は4つしかない.したがって利得表を埋めるための数字としてはたとえば 0, 1, 2, 3 の4個を用意しておけば十分である.
あとは囚人のジレンマの (i) ストーリーあるいは (ii) 特徴のいずれかを覚えておけばよい. 囚人のジレンマの作り方 1囚人のジレンマのストーリーを覚えておく.そうすると 4 つある戦略ペアをどういう順番でそれぞれの囚人が順序づけるかは分かるはずだ.利得の低い方から 0, 1, 2, 3 の値を当てはめればできあがり. 囚人のジレンマの作り方 2この作り方では 0, 1, 2, 3 から利得を当てはまる必要はない.囚人のジレンマの特徴として以下を覚えておく (最後2つの特徴は本質的ではないので,作り方 3 では外す):
2.1. 均衡における利得ペア (u, u) を適当に決め,u' = u + 1 とする.仮に (u, u) = (1, 1) とすると,(u', u')=(2, 2) になる. 2.2. この段階で利得表は以下までできている.
あとは,D と R が支配戦略になるように表を埋めれば以下のようになる.ここでは戦略を切り替えたときの利得の差が 1 になるように揃えた.
つまり,
囚人のジレンマの作り方 3「囚人のジレンマの作り方 2」で挙げた囚人のジレンマの特徴のうち,最初の2つを使う.各プレーヤーの利得には 0, 1, 2, 3 の数をすべて使うことにする. 3.1. Player 1 の利得を以下のように割り当てる.この割り当ては覚えておいた方がいい (補足 3.2).
3.2. D が支配戦略になっていることに注意すると L が支配戦略になることが分かる.(詳細.もし,R が支配戦略ならば (D, R) が支配戦略の組となるが,Player 1 の利得が 3 なので,これより改善できないことになる.) 3.3. Player 2 の (D, L) における利得は 0 あるいは 3 にはならないことに注意する.(詳細.この利得が 0 ならば,L は支配戦略にならない.この利得が 3 ならば, (D, L) が支配戦略の組となるが,Player 2 の利得が 3 なので,これより改善できないことになる.) もし Player 2 の(D, L) における利得が 1 ならば,利得表は以下の通りに決まり,これは囚人のジレンマになる.(均衡を右下に持って来たければ,L の列と R の列を入れ替えればよい.シンメトリックな利得行列が得られる.)
(HRM からの寄稿) |
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大学へようこそ.「新入生へのメッセージ」ということで原稿を頼まれたので,大学教員として,そして「先輩」として,アドバイスをしてみる.ボクは留年も退学も転校も卒業延期も経験したし,大学の教務主任にお願いして卒業要件を変えてもらったことさえある.長い学生時代を過ごしたので,それなりに有用なアドバイスもできると思う.抽象的・精神的な訓話をするつもりはない.みなさんそれぞれが目指す職業人 (ボク自身で言えば学者) への道のりを少しでも楽なものにできるような情報を提供したい.(ただしボク自身はけっこう無駄なことをやってきた.決して最短コースで学者になったわけではない.) みなさんの多くは高校までは学校の勉強や受験勉強をしていれば済んだかもしれない.しかし大学生になったら勉強しなければならないことは一気に増える.専門として選んだ学問分野だけではない.効率的にやるためそして長期間継続できるようにするために,勉強法を工夫する余地は大きい.よって勉強法の本も少しは読むといい.たくさん読む必要はない.(受験勉強法にやたら詳しい一方で受験勉強自体はあまりやらない受験生みたいになってもしょうがない.) ボクが気に入ったものを数冊紹介する.
さて,方法が分かったら次は中身だ.(本来の順番とは逆かもしれないが,順番は気にしなくていい.仕事でも学問でも,途中経過はそれ自体を問題にしないほうがいい.要するに結果を出すことが重要なのだ.) 学生時代になにを勉強しておくべきか.自分の目指す将来像から逆算して必要なものをピックアップすればいいのだが,それは必ずしも簡単な作業ではない.勉強すべき内容としてボクが学生に薦めたいものを例示してみよう.ものによっては勉強法にかんするヒントなども添えておく.
以上,資格取得のための勉強は挙げていないことに注意.資格のための勉強というのは,すでに知られた知識を取り込むものであり,新しい価値や知識を生み出す研究とはかなりちがう.そのため,刑務所とちがって大学では資格のための勉強は重視されない.大学にかぎらず職場も同様であり,(規制された職種以外では) 資格自体を重視するわけではない.なにかを学ぶためとか,なにか他の目的を達成するために資格を利用するのは問題ない.しかし資格取得自体が目的となってるようなひとは,自分の目的を問い直した方がいい. 最後に,受講科目の選択にあたっては,可能なかぎり優れた教員を選ぶのがいい.これを誤ると,とんでもなく遅れた知識を授けられたり,単純なものごとを複雑に説明されたりして,書籍で学ぶよりも非効率なことがある.このような失敗を最小化するためには,自分の仕事 (研究) をまともにやっている教員による科目を選ぶのがコツだ.
以上,勉強法,勉強すべき内容,そして教員の選択についてアドバイスを述べた.このエッセイがみなさんの大学在学中の糧となることを願っている. |
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「経済学はプロセスを無視して帰結だけに注目するか?」であつかった意思決定問題を再び考える (「元ゲーム」と呼ぶ; 第1段階で「流産」とあるのはもと記事では「妊娠に失敗」と修正済み): 今回は特に第2段階である患者の情報集合に注目し,第3段階の「自然」の選択を考慮した上で患者の期待利得を割り当ててみた (「標準モデル」): 患者にとってもっとも望ましいアウトカムは自分たちの子が生まれる場合であり,自分たちの子を中絶するのはそれに劣るのは間違いないだろう.また,患者の行動から,他人の子を中絶する場合の利得は産む場合の利得よりも高かったと考えざるをえない.ボクに分からないのは,自分の子を中絶する場合の利得が (a) 他人の子を中絶する場合よりも上なのか,(b) 他人の子を中絶する場合と産む場合のあいだなのか,(c) 他人の子を産む場合よりも下なのか,である.とりあえず図では自分の子を中絶するのが最悪であると仮定した.
患者の主観 (見積もりあるいは「信念」) によれば,妊娠した子が自分の子である確率 が q で,他人の子である確率が 1-q であるとする (ただし q は0以上1以下).患者の情報集合における利得を計算すると,
となる.自分たちの子である確率 q が (1/5より) 高ければ「生かす」が最適で,他人の子である確率が (4/5より) 高ければ「中絶」が最適となる.(q=1/5 という値のときに2つの選択が無差別になるのは,自分たちの子であるときの2選択の利得差 4 と他人の子であるときの2選択の利得差 1 から来ており,q = 1/(4+1) となっている.) ここで注目すべきは,確率 q がどうであれ,図の4つのアウトカム中最悪の場合の利得 (-3) よりも利得が低くなることはないことだ. これに対して,「妊娠したのが自分の子と分かって中絶する方が,自分の子か他人の子か分からずに中絶すべきかどうか迷う状況よりはマシだ」という考え方があるかもしれない.「妊娠したのが自分の子かどうか不確実性を残したままで,中絶するかどうか選択しなければならない苦悩」というジレンマが表されていないという批判だ. その批判への応え方はいろいろあるだろうが,ゲーム理論の標準から離れて行動経済学的領域に入って行く必要がありそうだ.次の図にしめす利得は,行動経済学の成果などはまったく考慮せずにボクが勝手に想定した仮説だ (「非標準モデル」).
非標準モデルが標準モデルとちがうのは,d(q) だけ利得が引かれていることだ.より具体的には,
としておく.これにより,妊娠した子が確実に自分の子である場合と確実に他人の子である場合を除いて,d > 0 だけ利得が下がっている.不確実性が少しでも入ればある定数分だけ利得が下がることによりジレンマを表したものであり,利得関数は q = 0 あるいは 1 のところで不連続となっている.不連続な利得というのは伝統的とは言えないだろうが,ありそうな感じもする.患者の利得がこのような不連続性を持つかどうかは,(情報集合自体を選択できるようにした上で,q を 0 あるいは 1 に近づけて行くような) 実験によって確かめられないこともないだろう. このモデルが標準からおおきく逸脱しているのは,利得が確率 q という均衡において内生的に決まる変数に依存することだ.しかしそれは一般論であり,いまのばあいは最初の図を見れば分かるように,q は与えられた元ゲームからベイズの法則により求められる.第1段階で「自然」が 11 を選ぶ確率を p1と,00 を選ぶ確率を p0 とすると,条件付き確率 q = p1/(p1+p0) と求められる.p =(p1, p0) におうじて異なる元ゲームがあると考えれば,利得が q に依存するのはさまざまなゲームを考えているためということになり,標準に取り込むことはできる. この非標準モデルにおける患者の行動は標準モデルと変わらない.q を固定してしまえば,利得は標準モデルと同じ (q=0 or 1 のとき) か,定数を引いただけ (q がそれら以外のとき) であるためだ.苦悩は患者の選択行動自体は変えないのだ! 別の言い方をすれば,標準モデルでも患者の行動は十分説明できることになる. しかし苦悩は患者の選択時の利得を (不確実性がなかった場合の最悪よりもさらに) 下げる.これは標準モデルでは説明できない.妊娠した子が確実に自分の子か確実に他人の子か分かっている場合 (q = 0 or 1) は仮想的な状況に過ぎないが,ひとはそういう状況を想像することはできるし,現実に直面した不確実性の残る状況 (q が 0 と 1 以外) とそういう状況を比較することもできる.患者の苦痛はそういう種類の比較から生じたものだったと言えるかもしれない.
(HRM からの寄稿) |
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伏線は敷いたので,今回は経済学の話題を提供しよう. まずは「近所で起きた受精卵取り違え: 被害感情を想像してみる」でとりあげた意思決定問題を,展開形ゲーム (正確にはゲームフォーム) で表現してみる (OpenOffice.org の図形描画を利用した): 第1段階で「自然」の取りうる選択肢は3つある: 11 (患者夫婦の子を妊娠させる); 00 (他人の子を妊娠させる); nat (妊娠に失敗する; 図では「流産」とあるが,この段階での用語としてはふさわしくなかった).(医者はあくまでも患者自身の子を妊娠させること 11 を目指して行動するので,能動的に選択は行わない.よってこの段階でプレーヤとなるのは不確実性を表す「自然」であり,「自然」は妊娠失敗を選ぶ以外にも医者にミスを起こさせることもできる.この段階で「自然」が選べる選択肢には片方の親だけが他人になる 01 と 10 というのもあるが,ここでは無視する.) 医者がミスして 00 となる確率はほとんどゼロだが,妊娠に失敗する (nat) の確率が相当大きいので,夫婦の希望通りに妊娠する (11) のはかなりラッキーな場合だ.妊娠に失敗すれば子供のいない状態 nil が実現し,これは (とりあえず) 治療前と同じだ. 第2段階では,妊娠を知った患者夫婦がその子を中絶するか生かすかを選ぶ.(この段階では妊娠したのが自分の子かどうか区別できないため,図で示すように「患者」を表す2つの丸を点線で結んで「情報集合」とした.) 中絶すれば子供のいない状態 nil になり,生かせば第3段階の自然の選択により流産するか生きるかが決まる.流産したら子供のいない状態 nil になり,生きれば自分たちの子供ができる (11) か,他人の子供ができる (00). 最終的な状態は a1 から a7 の 7つがあり,これらは「帰結」を表すため「アウトカム」とも呼ばれる.アウトカムをどう記述するか,あるいは認識するかが問題であり,図では nil, 11, 00 の 3 種類だけを区別して括弧内に書き込んだ.それぞれ「子供のいない状態」「自分たちの子ができた状態」「他人の子ができた状態」という帰結を表す. ここで気づくべきことがある.nil とラベル付けされたアウトカムが 5 つあるが,それらは同じ結果とみなす必要はないということだ.たとえば
とでは,ちがうあつかいをしていいはずだ. じっさい,上のような展開ゲームまで描いておいて,異なるプロセスで得られた 5 つのアウトカムを区別しないのは,バカげた話だ.それらを区別しないのは,ゲームを描く人の問題であって,展開形ゲーム自体の記述力不足の問題ではない.それぞれのアウトカムにたいして,根っこにある「自然」からそのアウトカムに至るパス (経路) は一意に決まる.(グラフ理論の定理を探すまでもないだろう.そのアウトカムの親,その親の親,……が一意に決まるので,それらの先祖を順次辿って根っこまで戻ればいい.間違えていたら指摘してくれ.) たとえば a2 に至るパスは,一連の選択を列挙することにより,
と書ける.あるいはプレーヤーや端点までふくめて「自然-11-患者-生かす-自然-nat-a2」のようにより詳しく書ける. つまり,アウトカムはこれら異なるパスの数 (上図では 7 個) だけ区別できるのだ.(上の図でアウトカムを nil と 11 と 00 だけに区別したのは,本来区別できるいくつかのアウトカムを同一視したためである.) そしてパスというのは,最終的な帰結に至るプロセスを表している.よって展開形ゲームを考えれば,あるところまでは特段苦労もなくプロセスを表現できるのだ.多くの文脈では批判として現れる「経済学はプロセスを無視して帰結だけに注目する」という主張は,少なくとも (展開形) ゲーム理論にたいしては当てはまらない.
さて,ゲーム理論を取り込んだ現代経済学にたいして,「経済学はプロセスを無視する」という批判は当てはまらないことを確認した.しかし,経済学が伝統的にプロセスを無視して帰結だけに注目しようとしてきたことは間違いではないだろう.過剰なほどにプロセスを記述しようとする他の社会科学から自らを差別するため,できるだけシンプルに社会現象を記述しようとした結果かもしれない.それゆえ経済学は「帰結主義的」であるとされて来たのであり,その傾向は特に (だれがなにをどれだけ消費するかという「配分」だけでアウトカムを表す) 一般均衡理論に強く現れている. そういう経済学の伝統的な帰結主義的傾向をもっとも真剣に批判したのは社会選択理論家である.(それがゲーム理論家でなかったのは,社会選択理論家がもともと規範的問題 [価値判断にかかわること] を重視しているという事情によるだろうが,ゲーム理論家にとってはプロセスはもともと記述できるものだからかもしれない.) たとえば鈴村興太郎は,選択の機会集合や選択手続きなどにも内在的な価値を認めるアプローチを押し進めることで,伝統的な帰結主義を乗り越えようとしている. ここでは鈴村の挙げる以下の端的な例を考えてみよう (Kotaro Suzumura, Consequences, opportunities, and procedures, Social Choice and Welfare 16: 17-40, 1999, の Example 1 を若干修正; べつに鈴村教授の代表作というわけではないが,ちょうどいい例が載っていたので採り上げた).二人姉妹がケーキを分ける問題を考える.量だけが問題だとすれば,配分は (x1, x2) のように書け,x1 は姉の取り分,x2 は妹の取り分である (ただし x1+x2=1).いまふたつの分け方 F, G を考える.Fは「公正なる父親の独裁的判断」であり,G は「姉妹自身による分割ゲーム」である.いずれの分け方でも結果として等分である (1/2, 1/2) という配分がアウトカムとして得られた. もし伝統的経済学のように (?) アウトカムである配分だけに注目すれば,これらの2つの分け方は同等と判断することになる.「しかしそれで適切か? 姉妹たち自身が決める権利があるかどうかの違いは無視できないだろう」というわけで,Suzumura は「拡張された選好」というものを定義したフレームワークを提示する.手続き H で配分 x が実現したとすれば,そのペア (H, x) に利得を与えるような話だ. では,ゲーム理論家ならどう考えるだろうか? べつに配分だけに注目するわけではないだろう.おそらく次の図のような略されたゲームフォームを考えるのではないか. 第1段階で選択する「プレーヤー」とは,姉あるいは妹あるいは姉妹と考える.特にそれが姉妹のばあいは,ある種のゲームを略して「プレーヤー」とある楕円で示していると考えられる.それが姉あるいは妹の場合は,この段階では単純に2つの選択 (F に参加するか G に参加するか) を与えられていると考えてよい.そして図中で (1/2, 1/2) とある配分の代わりに彼女の利得を考えれば,それらふたつの配分は利得において区別できる.同じ (x1, x2) という配分が得られたとしても,「F でそれが得られた場合よりも G でそれが得られた場合の方が彼女の利得は高い」といった具合に.このアプローチは Suzumura (1999) の提案するところと大差ないと言えないだろうか? 以上から分かるように,現代経済学,とりわけゲーム理論は帰結主義を乗り越えることができる.ただし,できることと実際にやることとはちがう.経済学の伝統的な帰結主義的傾向を実際に正面から見直して来たのは,ゲーム理論家というよりは,鈴村らをはじめとする社会選択理論家だったと言えるだろう. (HRM からの寄稿) 追記 (2/27/2009). 「第1段階で「自然」の取りうる選択肢は3つある: 11 (患者夫婦の子を妊娠させる); 00 (他人の子を妊娠させる); nat (流産させる)」とあったのを「第1段階で「自然」の取りうる選択肢は3つある: 11 (患者夫婦の子を妊娠させる); 00 (他人の子を妊娠させる); nat (妊娠に失敗する)」と修正.面倒なので図はそのままにしてある. |
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近所の病院で受精卵の取り違えがあったそうだ.不妊治療で誤って別の女性の受精卵を移植された疑いのあった女性夫婦が,人工中絶を受けることになったという.いったんは妊娠していたのだそうだ.事故は香川県立中央病院で起きた.「さか枝」といううどん屋の裏にある病院と言えば,地元の人には通じるだろう.あんな汚い病院で体外受精してもらう客がいたというのにはちょっと驚いた. (外観はそれほど汚くない.) 病院側はもちろん謝罪したが,女性側は2000万円の損害賠償を求める訴えを高松地裁に起こした.担当医は「妊娠したという喜びの際、中絶という身体的にも精神的にも想像を絶するような負担をかけ、申し訳ない」と語っている.被害の評価が食い違ったのだろう.この事件は全国ニュースになってるようで,けっこう感情的な報道が多い.記者たちにとっては当事者夫婦の苦痛を想像するのは容易なのかもしれない. だが,アスペルガー傾向の強いせいかどうかは知らないが,ボクにとっては想像するのが困難な苦痛だ. 評判も良かったに違いないこのベテラン産婦人科医師の想像を絶するという被害感情を,(平凡な男性である?) ボクが実感をもって想像するというのは無理な話だ.だって,もともと子供が生まれにくい状態 (nil) だったものが,いったん妊娠という状態 (1) を経たものの,結局はもとの状態 (nil) に戻っただけでしょう (リマーク参照).
治療前と治療後だけを見れば現状が変わらなかっただけなのだから,治療費をタダにしてさえもらえば,失われた時間と多少イヤな感情は残るとしても「あきらめるしかないな」と思わないだろうか.思えないひとも多いのかもしれないが,少なくとも「そう思いなさい.相手が間違いを正したのならば,済んだことは赦して忘れなさい」としつけを受けて来たのではないか.そういうマインドセットでも持たないと,とても現代社会では生きて行けないのでは.
ということでボクにとってこの夫婦の「苦痛」は感情的にはよく理解できない.しかし各紙の報道が普遍的と言えるくらいに被害者の苦痛を当然視しているからには,同じ人類として理性的には理解できるかもしれない.ということで当事者の感情面を重視したこの記事などを読んだりして考えてみた.
いずれのモデルにせよ,選択肢が nil と 1 だけでは状況を詳しく記述できていない.評価が「選好」にもとづいて行われるのであれば,その「選好」を記述する必要もある. まず選択肢として忘れてならない情報は,「だれの子」かだろう.同じ妊娠すると言っても,その子が自分の子かどうか,自分の愛する男性の子かどうかで,その意味がまったくちがってくるというのは十分理解できる感情だ.妊娠状態を「1」とだけ表現してすべて同じにあつかうのはあまりに乱暴というわけだ.ここでは次の5つの選択肢を考える (じっさいに選択する対象ではないので「アウトカム」と言った方がいいかもしれないが,そこはポイントではない):
夫婦あるいは女性の選好としてはおそらくここにあげた順番か,10 と 01 が入れ替わるかではないか.あるいは 01 (自分の愛する男性とほかの女の子供を身籠ること) を最悪に思う女性もいるだろう. いずれにせよ,2番目の nil と3番目の選択肢のあいだには大きなギャップがあると思われる.自分の身体というプライバシーが侵されるということからだけでも,じゅうぶん想像できる.レイプされたようなものだろう.(「レイプされてできた子供でも産みたい」という感情を持つ女性もいて,そういうひとはおそらく 10 を nil より選好するだろうが,考えない.今回の被害女性はそうではなさそうだから.) そんなふうに極端な言い方をすると,「みずから承諾したのだからプライバシーは侵害されていない」と反論されるかもしれない.(たとえば「バブルの頃ハワイの砂浜で新婚さんがセックスするのが流行ったじゃないか.あのとき多くの男たちががハワイに出かけ,暗闇の砂浜で相手を間違った振りをして他人の新妻とセックスして,『ハワイで作った赤ちゃん生まれそうよ』とか言われて,面倒なことにならないうちにさっさと逃げたとか……よくあったよなあ」とか.) しかし意図的でないにせよ相手は正しく情報を提供していないので,「承諾した」と言い切るのはむずかしいだろう.
で,そのギャップが大きいと,今回のように nil-->z--->nil (ただし z は 00; 正確には 00 と 11 の「くじ」で 00 に高い確率を持つもの) というプロセスで,x のマイナス効果が大きくて効用の評価上とても無視できなくなるのだろう.これで少し分かって来た. しかしこれでも説明としては不十分だ.いくら 00 (他人夫婦の子を身籠ること) にほとんど等しい z という状態の効用がひじょうに低いといっても,想像を絶するほどではないだろう.実際,00 というのは代理出産のことであり,外国では多くの人が金銭と引き換えに受け入れている. つまり選択肢として上に挙げた5つでは記述できていないものがあるのだ.それは nil-->1-->nil というプロセス全体,特に先に述べた 1-->nil という「変化」にかかわる部分だ.その部分が z-->nil であれば効用が増加するのだから良さそうなものだが (じっさい問題の夫婦は人工中絶を選択したので効用はこの変化でプラスだったはずだ),この部分はじつは生命を奪いもしている.そして生命が奪われると言っても自然に奪われるのと,人工中絶で奪われるのはちがうだろうから,区別する必要がある. となると nil-->x-->y という全プロセス中で,すべてに共通である最初の nil は無視できるにしても,x, y, そして「x-->y の変化のあり方」にかかわる情報は欠かせない.これら3つの要素からなる「一般化選択肢」を
と書き,x, y は上記の5つの (基本レベルの) 選択肢のいずれか,そして変化のあり方 x-->y は id (無変化)または nat (自然流産) または abort (人工妊娠中絶) で表すことにする.すると,妊娠しなかったものはそのままなので x= nil ならばかならず y=nil となる.また,x が nil 以外のときは以下のようになる.
さて,妊娠しなかったときの一般化選択肢は (nil, nil, id),今回の事故で仮に自然流産したときの一般化選択肢は (z, nil, nat),そして今回の事故にあたる一般化選択肢は (z, nil, abort) ということになり,おそらく効用はこの順番で下がって行くだろう.z のひじょうに低い効用を考えると,最初の2つのギャップは大きいし,人工妊娠中絶の精神的負担を考えるとあとの2つのギャップも大きいかもしれない.いずれにせよ今回の (z, nil, abort) は現状維持に見える (nil, nil, id) よりもだいぶ悪そうだ.
「こんな面倒な議論をしないとお前は分からないのか?」とか言われるかもしれない.まあ,そのとおりだ.そして,その理解もあくまでも理性レベルの話だ.やはり感情的には「でももとに戻ったし,治療費くらいは取り返したんでしょう?」となってしまう.これって普通じゃないのかなあ? 「自分もそうだよ」と思う読者は少なくないと思うんだが,いたらコメントしてくれないかなあ.
お知らせ このブログ左欄の information に「theorist2のはてなハイク」というのを追加した.ときには内容のないつぶやきもあるが,主として情報としての価値もありそうな短い記事を提供して行くつもりらしい.RSS 購読もできるので,RSS リーダーに登録することを theorist2 自身に代わってお薦めしておく. 追記 (2/22/2009) せっかく得られた結論を否定するようなまとめ方になってしまったので,改めてまとめておく:
患者と病院側で被害にかんする評価が異なったのだろうと書いたが,じっさいは病院側が慎重な対応をしようとして評価を出すのが遅れたということらしい.県立ならじゅうぶんありそうな理由だ.もし病院側の言う通りならば,損害額の評価の違いはそれほど決定的な問題ではないかもしれない.じっさい患者側の弁護士は最初今回の請求額 2000 万円の半額程度しか求めていなかったと明かしているし.保険が利くのかどうかとか,日本全国で年間どのくらいのミスを許容するかのターゲット設定によるけど,「ミス1回につき一千万円の追加コスト」は抑止力としてどうなんだろう. |
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世は不景気ということだ.せっかくの不景気の年だから,価値を生み出せない企業や部門が順調に潰れてくれることを期待したい.その分浮いた労働力は,もっと消費者の需要のある---つまり社会に役立つ---分野で生かされることを願っている.どういう分野かは各自探してくれ.それが市場経済だ. 以上,やや遅れた新年の挨拶.特に今年は古い日本が潰れてくれるのを楽しみにしている.(べつに民主党を応援するわけじゃないよ.) 不景気で学生が就職の内定取り消しをくらったりしている.会社員も残業が減ってヒマになったりしている.専門職大学院の教員は,例年になくうれしそうだ.これで定員割れの心配も少なくなりそうだと.じっさいどうかは分からないけど,まあ,そういう効果はあるのだろう. 内定取り消しをもらった学生の深刻さというのは,専門職大学院に参加しないノーマルな大学教員にとっても,なかなか実感を持てないものだ.「そりゃよかったじゃないか.韓国にでも留学して韓国語勉強するといいぞ」とか,自分が密かにやりたいと思っていることを無責任に薦めたりする. みずからが学生時代安易に卒業を延ばしたり,長年貧困レベルすれすれで生きた経験のある教員もけっこう多い.「自分が大学四年生のときも不況で就職は大変だった.自分はどこにも内定をもらえなかったので,とりあえず大学院に進んだ.いや,卒業を延期したんだっけ.細かいことは忘れたけど,こうやっていつのまにか教授になってた.まあ,就職していたらいまごろは会社役員になって金持ちにはなってたかもしれんが……べつに教授になってしまったからといって自分は恥じてはいない」という感じだ.あはは. そうじゃなくても,現代の学生はボクらの時代とちがって豊かな生活をしているので,同情というのはむずかしい.そもそも能力的にも開発途上の学生が大部分で,「あれで正社員として採用しなきゃならない企業も大変だろうな」という状態で卒業できてしまう. さて,日比谷公園の「年越し派遣村」がメディアで不相応な注目を浴びていたようだ.お正月でニュースが欠乏していたという事情もあるだろう.その割には 500 人くらいしか集まらなかったというのは,まだまだ良識を持つ日本人が多いということか.(集まった「ボランティア」は 1600 人以上とか.) そのニュースを見たボクといえば,高校卒業以来,勉強や仕事で忙しくて,新年に帰郷したのは一度くらい.(典型的な独身男性の正月なんてそんなもの……でもないか.) その村に集まったのも帰郷しないひとたちなんだろうが,そちらは仕事をしたいけど帰郷しない人々ということだった.と書くと分かりにくいな.「仕事を探してはいるけど仕事がない.しかしヒマだからといってまともな仕事についてない状態で帰郷するのも恥ずかしい.生活保護の申請なんてめんどくさそうだし,自分一人だけするのもかっこ悪い」といった感じの,プライドが高いというか,まじめなひとが多いのだろう.いいことだ.(もちろん派遣村で活動家としての「仕事」をこなしていたコアメンバーもいたはずだが.) 「ボクみたいに正月から仕事しなくてもいいじゃん」と思わなくはないが,そんなことを言っていてはニュースとしての切迫感が出ない.(このあたりについては元ジャーナリストの池田信夫が触れている.) 日比谷公園に集まった,仕事の切れ目 (between jobs) にいる人々が温かいご飯を食べているあいだ,ボクもモチくらいは食べた.もちろん帰郷はせずに.そういえばカニも食べた.それが彼らとボクのちがいだ.(彼らとちがって携帯電話こそ持っていないが) カニくらいは食べられるくらいそこそこ恵まれていると,今のようなチャンスがあってもなかなかみずから起業する気にはなれない.全国の失業者のみなさん,労働機会を創出できなくて悪いね.いや,もともとボクのようなビジネスセンスのない人間にはだれも期待してないよなあ…….
ところでカニを食べるというのはあれは消費活動だろうか? 満足を得るためにはかなりの生産的努力を要することは,経験のある者には分かるだろう.ピーナッツの比ではない.ボクは12月にも経験したとき,もう一年くらいはカニを食べたくないと思ったのだが,案外早くこの労働はやってきた.一定の生産的な活動なくしては消費の満足を得られないのが,カニの消費だ. 一定の生産的な活動なくしては消費の満足を得られない商品としてもっと適切な例はないか.ガソリンを入れないで「クルマが動かない」と文句言ったり.お湯をかけもしないで,「このカップラーメンは食えたものでない」と言ったり.それらも例にはちがいないが,たいした生産的努力ではない.やっぱり消費のために相当な努力がいるといえば,教育だろうな.「ガソリンも入れないで「クルマが動かない」と言われても: 教授会から中継」でも書いたけど. だからなんだって? このブログの左側の information 欄に Reiju の共有アイテムが追加されたことにお気づきだろうか? そこでのつぶやきは,結論を出したり主張を述べたりすることを特に意識してないようだ.アイディアによってなんらかの刺激を得たいひとには,それで十分かもしれない.この記事も同様ということにしておく. 追記 (1/7/09) タイトルと語句の修正ほか,いろいろ加筆した. |
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元旦.徹夜で読書をしていたボクは,朝6時過ぎに急に思い立って,初日の出を見に行くことにした.近所の屋島山上へ向かった.普段は寂れた屋島もこの日は人が多かった. 山上からは志度湾 (?) が奇麗に見えた.山の上にかかった雲に反射する初日の出は,幻想的でよかった. 獅子舞をちょっと見て帰りかけたとき,少し離れたところから太鼓の音.「そういえば地元の太鼓保存会が来るとか載ってたな」と思い出しつつ,近づいてみる.だんだん近づくに連れて音が強くなる.どうせ田舎の保存会と思って期待してなかったんだが,様子が少しちがう.「こりゃロックか」と思うような力強い演奏が響いて来る.伝統的な和太鼓とはちょっとちがった現代性を感じた. 近づいて見ると,黒づくめの特攻服のような衣装で演奏してるのはほとんが女性.おっさんが叩いてると思ってたボクはちょっと驚いた.みんなセクシーなノースリーブでときどき腕を大きく上げて脇の下を見せたり,いい感じに腰を動かしたりして情熱的だ.なかなか楽しめたので,けっきょく最後まで見ていた. 若くてけっこうかわいい女子中学生みたいな子もいた.「どうせなら水着で演奏したらもっと客来るんじゃないか」とか,「いや女子高生の超ミニスカート制服でどんどん叩いてくれたほうがもっといいかも」とか思った.でも,現実的な話,一部のおばさん演奏者にとってはそれは厳しそうだ.趣旨が変わってゲテものになってしまう.やっぱあの黒のノースリーブが適度にセクシーでいいのだろう. あとで調べてみたら,演奏してたのは讃岐国分寺太鼓保存会.なかなかの実力派のようだ.やっぱり曲は現代の作曲家のものだった. こちらのビデオは服があまりセクシーじゃないけど,演奏はこんな感じ.ボクが聴いたときは,このビデオとちがってみんな熱心に太鼓の方を向いて見物していた. この日は屋島寺に参ったあと,庵治の皇子神社にも行った.元旦の朝の庵治の町はほとんど人影もなく,中性子爆弾でも落とされたようにひっそりと平和だった.皇子神社はお正月らしくしめ縄がきれいになっていたけど,やっぱり無人で,おみくじなどはなかった.地元の人たちがぽつぽつお参りに来てたていど. |
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研究も一段落して,最近は文化的な生活も多少はできている.旅,読書,ビデオ鑑賞,食べ物,そして紀要論文鑑賞. 思えば 2008 年は「今年最悪のできごと」に書いたイヤなことがあった年だ.つまり
ボク以外のレフェリーはたまたま捏造がなかったと知っていたのかもしれない.だとすると,疑われた方も迷惑だろう.しかし不正行為と疑われかねない行為を「試験場」でやるのは,それ自体不正行為とみなされても仕方ないってもんだ.そこのところを他のレフェリーは甘く見過ぎている. その一方で,(イヤなことではないかもしれないが) 全学的問題で大変なことになっている経済学部の混乱を耳にするにつけ,自分はラッキーだったと思う.
さて,近況報告だ.先月末に論文を書き上げて以来やったことをいくつか列挙しよう:
リマーク 「こんな紀要論文」って言っても,いろんなタイプがある.元同僚のことだし,どんな論文かを具体的に示すのは勘弁して欲しい.でも,紀要というのを見たことがない読者はイメージを持ちにくいだろうから,ちょっと探してみた. あった! 30ページに満たないのに が近隣大学にあった! べつにその論文が悪いと言っているわけじゃない.(言うまでもなく,悪いのは捏造を助長する犯罪者たちだ.恥を知れ!) 丸々2ページの注釈があったり,中途半端な個人的事情が出て来たり,引用文献に (紀要掲載の自著論文以外の) 学術誌掲載論文がなかったりしてけっこう痛快なので,(迷惑と言われるだろうけど) わざわざプロモートしているのだ. 書評を拡張する手法なんかは,「そういえばこういうのもアリだったな」と,なかなか参考になる.紀要論文を書くときのひとつのお手本と言ってもいいだろう.(ボク自身,タイトルと一文のみの本文以外がすべて注だけからなる論文をいつかは書きたいと密かに思って来たし.この著者のように理想的な社会をどう実現して行ったらいいのかをいずれ正面から絞殺死体,いや,考察したいと思ってきた.)
同論文は「本稿が,こうした激変過程に直面している人々に何らかの参考になれば幸いである」と結ばれている.今年激変過程に直面した自分にとっては,(間に合わなかったけど) 確かにいろんな意味で参考になった.同学術情報リポジトリで今年最高のアクセス数を記録するのは同論文かもしれない. いやあ,(いつもながら) 盛りだくさんの記事だった.拍手! (二日続きの濃厚記事,いや投稿記事ですみません.) 追記 (12/14/2008) 副題を追加.「仲正昌樹」の表記誤りを訂正. 紀要論文をもうちょっと探求してみたい読者のために,紀要ならではの (?) 具体例を以下に追加:
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「夏休みだ.激しく研究をしなければならない」と決意を表明して以来トップ・プライオリティで取り組んで来た論文が,やっと先月末に公開できるところまでいった.イントロダクション以外は8月末にはほぼ完成したのだが,その後細かいチェックを繰り返したり,証明の審美性を高めるのに時間がかかったりして,リリースが遅れてしまった.(追記参照.) 神経をだいぶすり減らしたので,12月はじめに夏期休暇を取り,露天風呂で温泉に浸かったりした.(実際に「夏期休暇」と認められたかどうかは知らないが,夏に研究に専念して休暇を取れなかった気がするので,実質的には夏期休暇だ.) いや,べつにヌーディストの趣味はない.人といっしょに浸かるよりは,ひとりで静かに湯につかって次の論文の構想を練るのが好きなわけだ (だだし「論文の構想を練る」というのは今回は該当しない).(じっさいのところは,温泉の成分のせいか身体がかゆくなってあまりゆっくりした気分でもなかったけど.) 子供のころ行ったことのある,別府の水族館とか地獄を再訪問したりもした.立命館アジア太平洋大学行きのバスに途中まで乗って,国際的な雰囲気を味わったりもした. さて,なにを書くんだったっけ? そう,今年最悪のできごとだ.仕事が一段落したのに加えて年末ということで,今年のニュースを振り返る気分に満ちあふれているボクだ.今年は世界的に見てもいろいろと最悪なことが起こっているようで,「なんだ世界恐慌って,この程度だったの?」なんて (勘違いして?) 拍子抜けしているひとも多いにちがいない.「自分には緊急支援はないの? Where's my bailout?」と期待する輩も少なくないだろう. ボクにとって今年最悪だったのは,捏造に加担させられそうになったことである. 自分が取り組んだ研究で捏造をやりそうになったということではない.自分が審査する調査研究で,捏造の疑いを拭いきれないものがあったのだ.学者になって以来最悪のできごとと言っていいかもしれない.普段は過剰コンプライアンスに気をつけろという自分だが,これは学問のマナーにかかわる問題だ.このときばかりはコンプライアンスを激しく主張した.具体的には調査対象の明示を主張した.それが受け入れられないと判明した時点で,審査は拒否した.
「捏造なんて疑い始めたらいくらでも疑える.疑いが拭いきれないのは当たり前だ.ほかの研究者を信頼することなしには学問はなりたたない」 という学者もいるだろう.たしかにそういう面はある.しかし自分は調査対象者の個人レベルの情報を要求したわけではない.その調査がどこの組織で行われたかを示すこと,それも一般読者にではなく,レフェリーとしての自分に示すことだけを要求したのだ.喩えて言えば,個々の患者の記録を個人名とともに開示せよと言ったのではなく,実験が行われた病院名くらいはレフェリーに教えろと言っただけだ.(ほとんど喩えになってない.) 要するに「A 病院」じゃ確認しようがないため,捏造の疑いを持たれても仕方がないのだ.なぜミネソタのロチェスタにある Mayo Clinic と言えないのだろう?
次の記事では「夏期休暇」後の近況報告でもしよう.大学の組織再編にかかわるゴタゴタに (いまのところ) 巻き込まれていない現状だけでもありがたいと言えるかもしれない. 追記 (12/19/2008) 今年7月に書き始めた論文が,4ヶ月後の11月に完成したという意味ではない.最初に (投稿可能な材料をふくむ) 文章になったのが2004年10月で,当時は5ページのメモだった.4年ちょっとかけて,26ページのワーキングペーパーとして公開できたということ.2005 年の2月と8月に多少進展があったため,今年7月に再着手したときは7ページ程度 (プラス手書きメモ10ページ強) だったと思う.投稿可能な材料を見つけてから2年以内にリリースしたいと思わなくもない.でも,その間まったく他の論文を書かなかったわけではないので,まあ,こんなものだろう. |
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