三原麗珠が "Arrow’s impossibility theorem: One-shot proof made accessible" という記事をリリースした.アローの定理の最短証明を知りたいけど,短すぎて分からないと意味がないと思っている人なんかにお薦め.たとえば授業や書き物でアローの定理に言及はすることがあるのに,証明を一度も読んだことがなかった (あるいは読んだけど理解したことはなかった) 大学教授とか.大学教授でも分かる証明になっているはずだ.
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ソロモン王ジレンマ解決のための三原メカニズムを提示した論文「三原ソロモン JER」がジャーナルに掲載された:
これまで専門誌に投稿ターゲットを絞って来たボクにとって,経済学全般誌に論文を載せるのは初めてだ.日本人読者の多い全般誌 JER に投稿したのは,この論文で提示しているメカニズムがひじょうにシンプルなため広範な読者層が期待できることに加え,この論文がすでに日本語書籍に引用されている (坂井豊貴・藤中裕二・若山琢磨『メカニズムデザイン』; 川越敏司『行動ゲーム理論入門』) ことを考慮したためである (川越の方は本文に見当たらなかったので校正ミスかも).ボクとしては,自分が毎号チェックしているジャーナルに載ってひと安心といったところだ. 「メカニズムデザイン営業用」のこの論文の掲載事実をボクが Twitter でつぶやいたところ,それを見たある大学の学部生がこのメカニズムを復習しようとつぶやいていた.ゼミナールで旧バージョンを勉強したらしい.そのとき発表者かコメント者がばっさり斬っていたらしいけど (たぶんボクが重視しないパフォーマンスにかんする問題か),学部生でそれができるのはさすがだ. というわけで,この論文の「あとがき」と銘打ったこの記事では,学部生および大学院生などの新参研究者に三原ソロモン JER をお勧めできる理由や弱点なんかを考えてみる.実験家にも理論家にも検討をおすすめできる理由はありそうだ. まず,三原ソロモン JER が Japanese ER に掲載された事実に注目しよう.(今まで掲載されたことがないので推測だが) おそらく実験や理論の専門誌にくらべれば国際的に注目されるには時間がかかるだろう.いまこのメカニズムを実験したり理論を拡張することは,この時間的ギャップを利用できるということだ.その際,三原メカニズムは単純であるため,それを学ぶのにたいして時間はかからない.実験するだけなら,最初にリンクした先の日本語解説を読めば十分かもしれない.(ただしボク自身は実験に無知なので確証は持てない.) 大学院入学の面接試験のときそのメカニズムを口頭で説明することも十分可能だろう.面接試験官に「古いテーマ」と思われて退屈されてしまう危険性も,「新しすぎてついていけない」とか「修士論文の期限に間に合うテーマか?」と思われる危険性も避けることができるのではないか. 次に,三原ソロモン JER が解概念をひじょうにフォーマルに定式化している事実に注目しよう.正直なところ,ボクはこの論文を経済学一般読者向けに全編を通して易しくインフォーマルに書きたかった.ソロモン王ジレンマにかんする文献のほとんどがインフォーマルに書かれているという事情もあるからだ.だがレフェリーは「iteratively undominated strategies て,なんやそれ?」と文句をつけたのだ.「弱支配された戦略をすべて削除することを何段階か繰り返して得られた結果」というのがその答えだが,それをきちんと数学的に定式化して欲しいというのだ. もちろんボクは自分の意味するところを自分できちんと定式化した.意外なことに,不完備情報のケースでこの解概念を数学的にきちんと定義した文献を見つけられなかったという事情もある.その結果,この論文の最終バージョンは,ソロモン王ジレンマものとしては稀に見るフォーマルな部分を持つことになった.既存文献をうまく補完する結果になったので,それはそれでよかったと思う. そういうふうにして産み出された「私製」の解概念だから,idiosyncratic (個人に特有) なものになっている可能性はある.ボクとしてはその概念が自分の意図する解を明確に定義していること,そしてその概念を少し修正したところでメカニズム自体の有効性は変わらないと予想したことから,いちおう満足している. ただ,この概念をもっと適切なものにできるという理論家もいるかもしれない.ヒントとして最後に,ボクの定式化した解概念が想定する (はずの) プレーヤの思考様式を2つ挙げておく.各プレーヤーは他人のタイプにたいする確率分布を持たないことに注意.
(HRM からの寄稿) |
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このブログにときどき記事を提供してくれて来た三原麗珠が,twitter アカウントを始めたようだ.
http://twitter.com/reiju21jp といっても始めたのは4月4日なので,だいぶ前だ.おかげでこちらのブログへの記事提供頻度が下がった可能性がある. RSS で配信を受け取りたければ,以下のアドレスを使えばよい: http://twitter.com/statuses/user_timeline/276684852.rss 検索には Twilog の方がいいかもしれない: http://twilog.org/reiju21jp |
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修正に4ヶ月かかった論文をクリスマス直前にやっと再投稿した.クリスマスの日には数理経済学誌からもうひとつの論文のアクセプタンスレターが届いた.(二年半前にyyasuda ブログで「クリスマス明けには素敵なジャーナルから「載せるよ」レターが届くかも」とコメントしたことを思い出した.)
そんなわけで,今年の冬休みは珍しくプレッシャーがない状態で始まった.(すべての活動の時間を一週間以上奪われかねない問題も控えているが.) 溜まっていた本のなかから Oxford の Handbook of Rational & Social Choice を取り出して,ページ数のわりに大きな本だとため息をつきながら,「そろそろ自分も引退してこういう規範経済学色の濃いものでもゆっくり読もうか」とか夢想している. 溜まった本のなかには Bossert and Suzumura, Consistency, Choice, and Rationality (2010) もある.Suzumura consistency (鈴村整合性) の本なんだが,どういう結果を載せた本かはまだ把握していない.たぶん Chapter 1 を読めば全体のアウトラインは分かるんじゃないかという気はしている.とりあえず Preface と Section 1.1 だけは読んでみた. Preface では扱っている問題がコンパクトに概観できるのはありがたい.ただし transitivity, quasi-transitivity, acyclicty といった「選好と選択」理論の用語が定義なしで出て来るので,疎外感を感じる大学院生や研究者もいるかもしれない.それらはべつに難解な概念ではないので,知らないひとは本書中で定義を探すなり,Kumabe and Mihara (2010) (あるいはワーキングペーパー) のイントロを読むなりするといい. Section 1.1 はメインテーマである Suzumura Consistency がそのままタイトルになっている.6ページまで読めばとりあえず鈴村整合性がどういうものであるかは分かる."Money pump" ができない条件と見なせることなど,この概念の「売り」もいくつか挙げられている.純粋数学への応用もできそうな気もして来る.「選好と選択」理論に関心ある読者なら,それ以上読むべきかどうかを自ら判断できるはずだ. 鈴村整合性の定義は,「選択肢 a(1) を a(2) 以上に好み,a(2) を a(3) 以上に好み,…,a(k-1) を a(k) 以上に好み,さらに a(k) を a(1) より好む」といったサイクルが生じないこと,つまり強選好 (「より好む」) をひとつ以上ふくむような弱選好 (「以上に好む」) のサイクルを許さないこと,を2項関係に要求する.この条件を満たす関係 R が completeness (あらゆる x, y について xRy or yRx が成り立つこと) を満たせば,推移性もみたしてしまい,推移性を要求する標準理論と区別できなくなる.したがって「completeness に欠けること」をどう積極的に評価するかで,鈴村整合性自体の評価が大きく変わると思う.たとえば行動経済学の観点から鈴村整合性を評価できることが6ページに示唆されているが,より説得的な議論を知るためにはもっと読み進む必要がありそうだ. Kumabe and Mihara (2010, Preference aggregation theory without acyclicity: The core without majority dissatisfaction, GEB) の著者としては,いまその論文のイントロダクションを書いたなら,多少はちがっていたかもしれない気はしている.あるいはその論文は非対称的な強選好に焦点を合わせており,その否定として定義された弱選好は completeness を満たしてしまうので,鈴村整合性が入り込む余地はなかったかもしれない.その一方で,鈴村整合性を評価する行動経済学的研究をもっと知れば,われわれの論文のフレームワークにさらに説得力を持たせることができたかもしれない. ただ,整合性のなかで通常もっとも弱いものとして知られる acyclicity に比べれば鈴村整合性は当然ながら強い条件である.その acyclicity さえラディカルに取り除いた Kumabe and Mihara は,フレームワークの解釈の変更まで迫る,まったく異なった種類の貢献と言った方がいいだろう. 「Completeness に欠けること」を評価する研究者は,この本を読み進めると得をするかもしれない.「Acyclicity に欠けること」あるいは「コンテクストに依存した選択」を評価するみなさんは「非循環性なしの社会選択理論が出現!」でも読んで,Kumabe and Mihara (2010) へと進むとボクとしてはありがたい.とりあえず中村ナンバーの勉強にはなるだろう.(笑) (社会選択などを専門とする HRM からの寄稿) |
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答えを先に言えば,序数的効用でも功利主義は成り立つ.
ことの発端は,ある数理社会学/規範理論の専門家が 「序数的効用でも功利主義は成り立つという主張をたまにみかけるが、何を意味しているのか理解できない。ある社会的選択が序数的効用に基づくということは、諸個人の効用関数に異なる単調増加変換を施しても、社会的選択の順序が不変でなければいけない。功利主義がこれを満たさないのは自明だろう。」 とつぶやいたことだった. 3 つだけ RSS 講読している twitter のひとつで見つけたのだけど,その後この議論でほんの小さなサークルが盛り上がって,やたらと専門的で尖鋭的な議論に発展していったようだ.ちょっとだけ twitter アカウントが欲しくなった平凡助教授だ.笑 で,最初の疑問だが,その主張が何を意味してるかはコンテクストを見ないと分からない.単に功利主義批判だったら,序数的効用に限定しても同じ批判が成立することは多い.たとえば「功利主義は効用のみを評価基準にしているから,個人の置かれた多用な状況を十分に考慮できない」といったありがちな議論なら,効用を序数的なものに制限した場合ますます利用できる情報が少なくなるため,この批判は当てはまる.(ここらあたりの議論を精密にしたければ,「帰結主義」「厚生主義」といった用語を導入して,似たような評価方法を峻別して行くことになる.) コンテクストが分からないので,ここでは「序数的効用にもとづく功利主義」とは, 「個人の選好 (もちろん序数的) を集計することによって,社会状態 (選択肢) を評価する (順序付けする) アプローチ」 といった意味と考えておく.するとまず思いつくのは個人選好を集計して社会選好を得ることの困難さを指摘した「アローの不可能性定理」だ.そういう集計を行う関数 (社会厚生関数) には,アローの挙げた少数の条件をすべて満たすものがないことを主張した定理だ. ところがアローの定理で社会厚生関数にたいする条件のひとつ IIA (無関係選択対象からの独立性) を外せば,残りの条件を満たすルールはいろいろある.たとえばボルダルール (各人の選好でもっとも好まれる選択肢を m-1 点,次を m-2 点,…,最後を 0 点とし,各選択肢についてそれらの得点を合計して比較する方法) がそうだ.ただし具体的な投票を想定しているのであれば,そのようなルールにもとづく選択は耐戦略性をみたさない (戦略的操作可能である; つまり自分の選好を偽って報告した方がましな結果を得られることがある) という問題がある. しかし「功利主義」といったばあい,耐戦略性は問題にはならない.なぜなら功利主義云々を議論する場合,そこでは社会状態の評価を行う社会厚生関数の話をしているわけであって,その関数は具体的な投票ルールとは異なるからだ.社会厚生関数とはあくまでも関数であり,それは「個人の選好がこういうふうに決まれば社会選好がああいうふうに決まる」という対応関係を指しているに過ぎない.「どうやってその選好を表明してもらうのか?」とか,「どうやってその関数を計算するか?」といったことはその関数を具体的なルール (メカニズムデザインにおけるゲームフォーム) と見なしてはじめて問題になってくるだけであり,社会厚生関数をあくまでも観念的なものとみなしてよいコンテクストでは,耐戦略性や計算可能性は無視すべきである. これで答えは出た.序数的効用でも功利主義は成り立つ.それを主張するひとは,「ボルダルールでやりゃいいじゃん」と言えばいい.いや,ボルダルール以外にもいろいろ使える関数はあるので,お好みの関数を拾ってきて, 「序数的効用での功利主義とは関数○○によって社会状態を比較するアプローチである」 と定義してしまえばよい.めでたし,めでたし. さて,功利主義については,学生に教えるときに気をつけるべきことがある.効用のなにが個人間で比較可能かについて,いい加減な説明をしてしまいがちなことだ.せめて次の例題に出てくるような点にかんしては,ごまかさない方がいい.(ボク自身はこんな出題をしたことはないけどね.) 例題.以下の文章の [ア] から [キ] にいれるべき用語を以下から選べ: 基数的,序数的,ベンサム,ロールズ,功利主義,maximin 原理,増減,絶対レベル. 「現代経済学では,効用の値が単なる大小関係を越えた意味を持つ[ア]効用を想定するアプローチは (不確実性を考慮するとき以外は) 主流とは言えない.しかしそのアプローチを採用すれば,個人の選好の強度を考慮したり,効用を個人間で比較することが可能になる.たとえば社会状態の良し悪しを個人の効用の合計によってはかる[イ]流の[ウ]は,Harsanyi (1955) によって正当化されている.[ウ]では,効用の[エ]を個人間で比較できることが想定されている.一方,社会状態の良し悪しをもっとも効用の低い個人の効用によってはかる[オ]流の[カ]は,Hammond (1976) によって正当化されている.[カ] では効用の[キ]を個人間で比較できることが想定されている.」 さて,IIA の謎を書くのが面倒になってきたので,あとは列挙で済ませる.ここではあくまでもアローの定理における IIA に限定しているが,それでもいろいろと謎がある.
(社会選択などを専門とする HRM からの寄稿) 追記 1 (10/24/2010). コメント 3, 4 にかかわるが,なんと Roemer (1996, pages 17-18, 20) は「序数効用論に基づくロールズ主義」をやっている.maximin 原理を「個人間比較可能な序数的効用」(co-ordinal utility) というやつで説明している.功利主義だけでなく maximin 原理も序数的効用でできるのだ! 詳しくはリンク先を参照.(追記.ただし追記2の「序数的効用」の定義は満たさない.Moulin (1988, Chapter 2) にも関連する議論がある.) 追記 2 (10/24/2010). コメントにもかかわるので,ボクの意味する「序数的効用」の意味を定義しておく.これが載っている文献とかミスとかあったら指摘してください.眠れないため起きてきて書いているという状態だから. Let F be a social welfare functional, that is, a function that maps each profile u=(u_1, ..., u_n) of utility functions into a social preference. F is ordinal if for any two profiles u and u', whenever for all i and for all x, y, u_i(x) ≥ u_i(y) iff u'_i(x) ≥ u'_i(y), we have F(u)=F(u'). Conjecture. Let p(u) be the preference profile defined from u. That is, x p_i(u) y iff u_i(x) ≥ u_i(y). Then, a social welfare functional F is ordinal if and only if there exists a social welfare function f such that F(u) = f(p(u)) for all u. |
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その島でボクらを出迎えてくれたのは,口蹄疫で隔離・殺傷処分された牛たちやブタたちをイメージした芸術作品ではなく,低層建築の寮や病棟が小奇麗にならんだのどかな風景だった.
高松市庵治の沖合いにある大島は,島のほぼ全体が国立療養所大島青松園となっている,人口約100人のちょっと特殊な島だ.ボクらは瀬戸内国際芸術祭の作品鑑賞も兼ねて訪れてみた.一時間ほどのツアーでは,もともと島にある「納骨堂」や「風の舞」のほか,芸術祭関連の「古いもの/捨てられないもの展」などを巡った. 島民 (入所者) の生活はこんな感じで進行してきた:
「生活」といえば,そういえば自動販売機にはビール類が多かった.郵便局があって,その名前がなぜか「千歳郵便局」だった. いずれにせよ,隔離されて上記の手順で「処分」されて来た島民の歴史を思うと,口蹄疫の殺処分が連想されて仕方ない.厚生労働省が本質的に変わってないことは明らかじゃないだろうか. それにしても人口約百人の島にあれだけの療養所や宗教施設が揃っているのはもったいない.ほかの病気の患者を受け入れるとか,老人ホームにするとか,もっと有効利用できないのだろうか.帰りの船のなかで,「[島民は] ある意味いい生活してますよ」と声をかけて来たおばさんに言われながら思った. |
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前回の記事「本気では読めない公共哲学」に,経済理論家とリバタリアンの立場から補足しておく.
追記 1 「公共的ルール」の代替例としてボク自身が挙げたのは (繰り返しゲームにおけるプレーヤー間の懲罰といった) (均衡における) プレーヤーの戦略だった.これは経済理論の考え方としてはあまり標準的ではないことを断っておく (制度をゲームの均衡と考える比較制度分析のようなアプローチには共通する部分があるかもしれない). より標準的な経済理論では, 「ルール」というのは要するに「ひとびとがどういう行動をしたらどういう結果になるのか」という対応関係であり,それは「メカニズム」あるいは「ゲームフォーム」とよばれる関数として定式化される.(ちなみに「ルール」の修飾語としては,「公共的」という言葉はあまり聞かないが,「集合的」「社会的」という言葉はよく用いられる.) いったんルールが与えられれば,「どういう帰結が予想されるか」はゲーム理論で分析できる.そして「どういうルールを与えるべきか (どういうルールが望ましいか)」は,メカニズムデザインあるいは契約理論で分析できる.ただし望ましいルールをじっさいにひとびとが選ぶかどうかというのは別問題なので,そこを分析したければ,ルールをなんらかの上位レベルのゲームの均衡として考えるアプローチを採用する必要が出て来るだろう.ルールの例として突如前回記事で戦略を持ち出した飛躍の背景には,このパラグラフで述べたような思考があったことを注記しておく. 要するに「〈公共的ルール〉なるものとしては,政府によって与えられた法律のようなものよりも,ひとびとが自発的に選んで行く契約のようなものを重視した方が,〈民の公共〉の考え方に親和的ではないか」と言いたかったのだが,(かならずしもポイントではなかったため) 論理を飛躍させた結果分かりにくくなっていた. 最後の点については,前回記事で触れた石田梅岩の商人道のように,商人を「民の公共」のプレーヤーとして見る考え方が参考になるかもしれない.石田梅岩が「公」とする価格 (相場) 自体が,プレーヤー間のゲームの均衡として決まるはずだからだ.つまり私的主体同士の相互作用の結果として「公」とされる何者かが決まるという考え方だ. 追記 1 への追記 (9/7/10) どういうメカニズムが望ましいか? 「民の公共」の観点から見て重要な条件としては,「そのメカニズムに参加することが強制されていないか?」というものが考えられる (山脇自身の「民の公共」の理解とは異なるかもしれない).「自発的参加」をメカニズムに要請するやり方はいくつかあるが,ここではソロモン王が直面していたはずのある問題を解決した簡単なメカニズムを紹介する.以下の 1 がそのメカニズムを提唱した論文で,有名なセカンドプライスオークションに,「参加するかしないか」の選択肢を加えただけのメカニズムになっている. 2 はその論文を 10 分程度で紹介するビデオで,3 は日本語による解説である.
追記 2 無政府資本主義の考え方にしたがえば,「問題の多い政府の領域をなくして市場の領域だけにしてしまえばいい」ということになるだろう.経済学でいうところの「政府の失敗」は政府が存在するがゆえの失敗だが,「市場の失敗」は (大胆にいえば) 市場が存在しないがゆえの失敗だからだ.したがって無政府資本主義者は,本書の言う「政府の公/民の公共/私的領域」という図式を,「私的領域」だけに縮小することを目指そうとするだろう.そう考えることが無政府主義者にとってもっとも分かりやすいはずだ. ただ,無政府資本主義者はべつに「民の公共」に反対するわけではない.徹底した個人主義者であることが多いので「民の公共」という概念が分かりにくいはずであり,そういう (スローガンとして採用できない) 分かりにくい概念を外した結果が「私的領域」という図式になるというだけのことだ. 本書『公共哲学とは何か』の著者が無政府資本主義者にも分かる言葉で「民の公共」なるものを説明できたならば,かれらはむしろ積極的に「民の公共/私的領域」という図式を採用するようになるかもしれない.そこらあたりの考察はボクの能力を超えるので,LJP の参加者にでも丸投げしておきたい. (社会選択などを専門とする HRM からの寄稿) |
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「公共哲学」といえば,社会選択をやる自分にとって無縁とは言えない.『福祉の公共哲学』といった本を編集した社会選択理論家もいれば,社会選択の主用定理に言及した公共哲学の本もある.たとえば放送大学大学院教材の『公共哲学』では一章分が経済学アプローチに当てられ,アローの定理やギバード・サータスウェイトの定理が言及されている.(社会選択理論が出て来るのは当然といえば当然だが,経済学者が書いただけあって,その章では最後に坂井豊貴・藤中裕二・若山琢磨『メカニズムデザイン』も出現する.)
ということで山脇直司の『公共哲学とは何か』という易しそうな新書をヒマつぶしに読んでみた.結論を言えば,この本でいうところの「公共哲学」は,リバタリアンである自分には感性的に向いてない感じがした.書いてあることのほとんどが冗談か左翼の生き残り戦略に見えてしまう. 「社会など存在しない.存在するのは個人だけ」と考える者にいくら「公共」と繰り返しても理解させることはできないだろう.この本では「公共」という言葉が何度も繰り返し現れるが,自分にはそれが何なのか最後まではっきりしなかった.特に公私二元論に替わる「政府の公/民の公共/私的領域」という根本理念 (詳しい説明は35頁あたり) が分からない.プレーヤーの分類ではなくて活動領域の分類だろうけど.だとしたら現代経済学もべつに公私二元論ではない.「民の公共」の代表的プレーヤーとして挙っている例が NPO とか NGO ってのも奇妙だ.根本理念が分からないからボクにはほとんどなにも分からない本になっている. 経済学やゲーム理論への批判も何箇所かに現れる.ここではふたつだけ取り上げたい. ひとつめは「パワー・ポリティックスのソフトバージョンともいえるゲーム理論」にかんする次の記述だ (170-171頁): 「このような理論のなかでは,利害レベルでしか『自己-他者-世界』関係が成り立たなくなり,利害を超えたコミュニケーションや価値理念によって構成される公共世界が論じられる余地がなくなってしまいます.」 著者自身はそのような「利害を超えたコミュニケーションや価値理念によって構成される公共世界」というのを分かっているのかもしれないが,ボクという一読者に分からせるように論じてはいない.そこに問題がある.つまり多くの経済理論家にとって,そのような「公共世界」は分からない謎であるはずだ.しかし「利害を超えたコミュニケーションや価値理念によって構成される」ようにも見える「公共世界」をゲーム理論で論じることはできる.その際「利害を超えたコミュニケーションや価値理念」という分からないものを基礎にしてしまっては説明にならない.相手の理解できる概念にもとづいて説明できなければ「説明」の名に値しないわけであり,この場合そういう概念として相手の理解できるような「利得」(「利害」に限定しない) を用いることになる.「利得」を用いなくても分かったつもりになっている著者自身にとっては面倒な手続きかもしれないが,それを他人に分からせるためには,その相手が分かる言葉で説明しなければならないことを見落としてはならない. ふたつめは「公共的ルール」にかんするつぎの記述だ (180-181頁): 「このような『公共的ルールにはめ込まれた市場経済』というリアリティを,主流派経済学の教科書が無視ないし軽視しているのは,実に奇妙なことです.いや,そうした市場経済のルールを無視した経済学教育は,社会の現実ではなく空想を教授している点で,有害だといわざるをえません.」 ボクは空想自体は有害だとは思わないし,その点には「理想主義的現実主義」を説く著者自身も賛成するはずだ.かりに経済学教育が空想で終わっているならば他の学問を組み合わせればよいからだ. 著者が問題としているのは,彼自身が教科書を読んでも市場の背後にある「公共的ルール」を読み取れなかったという事実だろう.ここで著者は (「民の公共」を唱える者らしくなく)「公共的ルール」の例として (繰り返しゲームで見られるようなプレーヤー間の懲罰などではなくて)「経済刑法」のような政府による制度や法律ばかりを挙げている.だが「厚生経済学の第一定理」など市場にかんする経済学の主要結果にとって大切なのは,とりあえずモノの所有権がはっきりしていることである.所有権については,だれでも「きみのものはぼくのものではない」とか「きみのものとぼくのものを自発的に交換することはできる」という理解くらいは持っているはずで,(所有権にかんするかぎり) それだけで主要結果の理解には十分だろう. 経済学教育で「公共的ルール」の存在が軽視されているのは,経済学の教育では通常,経済学の主要結果を伝えることを重視するためだ.このことは特に奇妙なことではない.学問的成果として得られていない事柄についてあれこれ議論することが有用だと考えるヒマな人は必ずしも多くないからだ.「公共的ルール」の存在以外にも,個人の効用が自分の消費だけで決まること,外部性が存在しないことなど,主要結果の数学的仮定の背後にある前提でありながら,明示的には記述されないことは少なくない.伝えるだけの内容が学問的に蓄積されれば経済学教育でも多くの時間をその内容に割くようになるだろう.「制度の経済学」が発展していることを考えれば,「公共的ルール」について多く語られるようになるのもそれほど先のことではないかもしれない. 以上,経済学やゲーム理論にたいする批判二点に応えてみた. 公共哲学は「学問の構造改革」を目指すというが,どういう具体的成果があるのかよく分からなかった.この本にかぎっていえば著者の意見表明だらけに見える.こういうやり方では学問の専門化以前への復古主義に陥る危険性が高いかもしれない. 最後に本書で得られた豆知識についてふたつ呟こう. 「過渡的正義」という概念 (162頁) は知らなかった.世代間衡平の研究者はあつかっているんだろうか. 石田梅岩の商人道は知らなかった (83頁).市場原理について述べたもので,商人を公的存在者としてあつかっているが (市場で決まる相場を「公」と呼んでる),こちらの方が「民の公共」のいい例じゃないか. (社会選択などを専門とする HRM からの寄稿) 追記 (9/7/2010; by HRM) 経済理論家とリバタリアンの立場からの補足を「〈本気では読めない公共哲学〉への追記」に寄稿した. |
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